2003年3月23日   大斎節第3主日(B年)


司祭 クレメント 大岡 創

【ヨハネ2:13−22】

 イエスが神殿の境内で商売をしている人々を追い出される場面が浮かび上がってくる箇所です。日曜学校に通っていた頃に聖画で見たのがとても印象的でした。それは両替台を引っくり返すという「乱暴なイエス」のイメージです。怒るイエスの姿はこども心にも驚きでした。
 聖書のなかではイエスがこの箇所のような怒りをあらわにする場面は他にはありません。その怒りはどこから来たのか?また、なぜ、この場面での怒りが聖書に記されたのか、わたしたちは考えなければならないと思います。
 神殿に行くのに、さまざまな制約が課せられていた当時のユダヤの状況を考えてみると、誰でもがいける場所ではなかったことを思わされます。
 神殿とは神さまと自分(わたし)をつなぐ、ひとつのシンボル的空間です。その空間は、神の霊によって満たされている空間であり、すべての人々に開かれるべきところです。その空間に足を踏み入れるとき、この世の様々なわずらいに流され、裏切られ、傷ついた者にとっては癒しの場になるはずの場所です。
 イエスがそのような怒りをもって、神殿にいる人々に伝えたかったことは何だったのでしょうか。商売をしてはいけないということでしょうか。それともいままでの慣習を撤廃しようというのでしょうか。神殿を汚すとはどういうことなのか。
 それは、「供え物を売る」「両替をする」そのような行為によって、本当に神さまを求めて祈りたい人が神殿に入ることができない、神の意思に背くということではないかと思います。わたしたちにとって大切なことは「神の意思はどこにあるのか」と常に祈り、心を研ぎ澄ませて見つめることだと思います。そして、「神さまの意思にそむく」ことに対しては、時に怒りをもって伝えなければならないんだというメッセージがこの福音書から伝わってきます。イエスは常に、低くされた者、小さくされた者の側に立って歩まれました。その歩みは「神のご意志である」と確信します。
 教会では毎主日はもちろんのこと、様々な機会に祈りがささげられます。その祈りは感謝の祈りであったり、悲しみを神にゆだねる祈りであったり、悔い改めの祈りであったりと様々です。しかしどのような場合も、そこに集う人々が神に向かって思いをひとつにし、祈りあう場であることには違いありません。
 すべての人のために開かれた祈りの場は、ご自分の命を賭けてまで大切にされたイエスを通して、人々の祈りが天に届けられるゆえに成り立っていることを忘れてはならないと思います。



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