2003年3月30日   大斎節第4主日(B年)


執事 ダニエル 大塚 勝

【ヨハネによる福音書第6章4節−15節】

 少年が提供した5個のパンと2匹の魚を、イエスは感謝して皆に分け与えられました。このわずかな糧が5000人を満腹させる食事なりました。それでも、なお残ったパン屑は12の籠がいっぱいになるほどでした。.....これは4つの福音書のすべてに伝えられている奇跡物語です。

 「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」とイエスは弟子たちに問いかけられました。フィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答え、アンデレは「ここに大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます。けれどもこんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」と云いました。  
 イエスの質問に対するこの2人の返答はいずれも「こんなに多くの人を食べさせるのは無理です」という意味で悲観的に答えています。しかし、フィリポの意見は「・・・・足りないでしょう」と量的に不足であることのみを強調しているのに対して、アンデレは「・・・・持っています。けれどもこんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」と現有物の内容と量を示して不足をとなえています。両者の意見は、一見同じように思えますが、少しちがうことに気づきます。フィリポは、与えられていないから無理なのだというマイナスの発想です。アンデレは与えられているものの内容と量を考え、計算をした上で、これではかなり不足だから無理であるとの結論をだしています。
 フィリポのように「与えられていないから・・・・」と否定的に物事を考えるのは、私たちによくあるケースです。アンデレは「こんな物がこれだけ与えられているが・・・」とフィリポに比べると多少前向きですが、やはり無理だと否定しました。これも私たちによくあるケースです。
 イエスは、今ここにある「ものと量」によって大勢の人々を養われました。それでも、なお多くの余りが出ました。その食物は、もともと1人の少年が提供したものです。弟子たちが否定的な考えを述べたのに対し、少年は、彼が持っているわずかな食物を皆で分かち合うために差し出したのです。イエスはそれを受け入れられました。これは神がなさったことですが、少年は神からすでに与えられている(受け取っている)賜物によって多くの人々の飢えを救ったということになります。
 私たち、一人ひとりにも、それぞれタラントンが与えられています。貴重な賜物です。神はそれを使ってくださいます。この場面でもイエスは少年を使って食物を与えられたのです。神は私たちをも使って、そのご意志を実現しようとなさいます。それは私たちが神のお働きに仕えることであります。
 このようなことをこの奇跡物語は語っています。まさに「教会の働きは、こうあるべき」ということを象徴する出来事であります。


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