2003年4月6日   大斎節第5主日(B年)



司祭 ダビデ 佐保靖幸

一粒の麦 イエスの死【ヨハネによる福音書12:20−33】

 今日の「大斎節第5主日」はかつて「贖罪の主日・受難の主日」とも呼ばれていました。それは、次の週が「聖週」と呼ばれる特別な週であって、次の主日つまり復活前主日が主イエス様のエルサレム入城を記念する日、木曜日が聖餐制定の聖晩餐から12弟子の一人ユダの裏切り・ゲッセマネの園での祈り・捕らわれ・ローマの代官ピラトによる裁判等を記念する日、「聖金曜日」が十字架の道行とご受難を記念する日である等、主イエス様の意味について学ぶ為の充分な時間がないので、本日の「大斎節第5主日」の礼拝では特にこの「十字架ご受難」の出来事とその意味について学び、次の「聖週」に於て「主の十字架に直面」するために備えをするためです。本日の福音書はその意味をとどめています。
 主イエス・キリストの十字架の死の意味について、結論的に言えば、それは我々人間と全ての被造物に対する「神の恵みの秘儀・神秘」であるということです。即ちそれは丁度、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく,"霊"の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ちのぞんで」(ローマ8:22−23)いる私たちと全被造物に対しての、「主イエス様のご復活」の意味がそうであるのと同じ意味においてです。
 主イエス様の十字架の「ご受難」の意味について、聖書は全体として、それは「神の愛」の実現であり、完成であったと言っています。聖ヨハネも福音書と手紙の中で、イエス様の十字架の死の意味についていろいろな角度から述べていますが、本日の福音のヨハネ12:24では「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と、主イエス様ご自身が、「栄光を受ける為の死」は「多くの実を結ぶ為の死」であることを語っておられます。そして27節では、「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」と祈っておられます。この故に、この箇所がヨハネ福音書の「ゲッセマネの祈り」と呼ばれています。
 普通、地に落ちた麦は死ぬわけではありません。地に落ちて一度は姿が見えなくなりますが、発芽して育ち、その命は多くの実を結びます。これは、万物創造の時に"主イエスが『父よ』と呼ばれたそのお方"が、宇宙・自然・被造物に与えられた原理・法則であり、その時、主イエス様も共に在られました(はじめに在ったことばイエス)。「・・・はっきり言っておく。・・・」(24節)と語られた時の主イエス様の決意と思いの深さの中に、永遠の命の源でありその付与者であるお方の『愛の秘儀・神秘』が込められています。
 この「一粒の麦の死・・・」が語られたのは、「・・・祭りのとき礼拝するために・・・、何人かのギリシャ人が『お願いです。イエスにお目にかかりたいのです』(20−21節)」と尋ねて来た時のことでした。異邦人を代表するこのギリシャ人を含めて、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(32節)との言葉で、ここでの、ご自身の死についての話を終えられました。
 本日の使徒書のヘブライ書5:9では、主イエス様の死はご自分に従順であるすべての人に対する、「永遠の救いの源」としての《苦しみ・死》であると宣言しています。
 主イエス・キリストの十字架の愛の力が、全人類と我々一人一人の罪を砕き、心を開いて下さり、今一度新しく、その《十字架の愛》を知る恵みへと我々を生き返らせてくださいますように。アーメン

 

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