2003年5月4日  復活節第3主日(B年)

 

司祭 ヨシヤ 立川 裕

「聖書を悟らせるため彼らの心の目を開いて」【ルカ24:36b−48】

 毎主日と祝日にはそれぞれ聖餐式で読まれる聖書日課が定められております。また、その日の特祷も定められその日ごとに祈られます。特祷は、聖餐式においては、聖書のみ言葉が読まれる前に用いられますが、この特祷とは、その主日、祝日の主要なテーマが述べられており、いわば、その日、何を心に置いて礼拝を行うのかを指し示し、何のために私たちは今集められ、礼拝を行っているのかを明らかにしているのです。
 本日の特祷で私たちは、「み恵みにより信仰の目を開かれ」ますようにと祈っております。信仰の目を開かれること、心の目を開かれることによって、私たちは復活の主イエスのみ姿を見ることができるのです。ですから、私たちは肉体に備えられた視力だけでは復活を知ることはできないのです。このことから出発して、本日の学びを始めたいと思います。
 「肝心なものは目には見えない、心の目で見ないとだめなんだよ」と言った「星の王子様」を書いたサン=テグ=デュベリがその中で王子に語らせている言葉を思い出します。見えることは素晴らしいのですが、見えているものにどのような意味があるのかを知ること、悟ることがもっと素晴らしいことなのではないでしょうか。
 聖ルカによる福音書の24章では、心の目が遮られて、復活の主がそこに現れながら、エマオの弟子は、そのお方を主イエスだとは分からなかったという様子が描かれています。見えながらも、見えることを遮断しているのは、ここでは主イエスが十字架に掛けられて、殺されてしまったという深い悲しみや、そのことの意味を分からずにいたことが大きな要因になっているように思えます。これは、起こった出来事、その事実を事実としてしか受け取っていない時に、最初に出会う悲しみであり、なぜ神はそのような出来事を私たちの前に突きつけるのか? それは私たちには絶えられないことではないかと嘆くしかないのではないかと思える出来事のように思えます。
 突如として人を襲う不幸は、その人に生きる望みを失わせるほどの混乱をもたらします。そこで人は自ら自分の首をくくろうとすることを選ぶかもしれません。その人にとって動機としては幸福を目指しての行動なのです。この大きく心が揺れ動くときにも神は沈黙を保っているようにも思えますから、神はどこに居られるのかと嘆きのうちに終わることがあるかもしれません。この出来事に接する人もまた、深い悲しみに打ちひしがれ、神は居なかったのかと絶望するかもしれません。
 しかし、神は、私たちに対して、私たちに与えている全ての出来事を通して自らの存在を指し示しています。「あなたは滅んではいけない。翻って生きよ」というメッセージが神の聞こえざる声であり、主イエスの復活の命なのです。
 私たちに指し示されている神の言葉は、聖書の学びによらなければ、見いだすことは出来ません。聖書に記されていることを解き明かす説教がなければ、人々の目は遮られたままになってしまうでしょう。神は一見惨めに見えるキリストの十字架の出来事によって、全ての人を救う喜びの知らせを、私たちに宣べ伝えています。そして、私たちは、それを聞いて、それを見て、それを感じて、これを伝道しようと心が燃えているはずです。神のなさる出来事は、目を開いてみれば、私たちにとっては大きな喜びの知らせだからです。
 聖餐式においては、パンが裂かれていく様子を見て、そこに主イエスの十字架上での体が私たちと多くの人のために、主イエスは徹底的に自分を虚しくされているということを見て感じ取る時、一人一人のうちに復活の主イエスの命が宿ります。杯から溢れ出る主イエスの流す血は、私たちの心を燃やしているのです。

 


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