2003年5月25日  復活節第6主日(B年)

 

執事 エッサイ 矢萩新一

「おまえの喜びは、わたしの喜び」【ヨハネによる福音書15:9-17】

 
 イエスが神と等しい者であるにもかかわらず僕(しもべ)・人間の姿をとり、苦難に満ちた人生を歩まれ、十字架の上に命を置かれたのは、「私達の喜びが満たされる為」でありました。いよいよ弟子達との別れが近付いている事を知るイエスは、主人の為に仕える「僕(しもべ)」ではなく、彼らを『友』と呼びます。親子や夫婦の間だけの愛ではなく、イエスは「友」としての愛を私達に身を持って示して下さいました。それは、神様がその独り子を賜ったほどにこの世を愛された愛、イエスが自らの命を捨てられたほどに「友」を愛された愛です。この愛に留まり、互いに愛し合いなさいとイエスは言われます。そしてその目的は、「私の喜びがあなた方の内にあり、あなた方の喜びが満たされる為である」と言われます。人々の喜びを自らの喜びとする愛であります。
 私達の人生の動機は、楽しく生きたい、愛情をもらいたい、裕福な暮らしをしたい、偉くなりたいなど様々な欲望や願望を持った生き方がありますが、「愛する者の喜びを見たい」という人生の目的ほど素晴らしいことはないでしょう。自らの願望を叶える為に頑張る事は決して否定されるものではありませんが、弱い人間である私たちは、ついつい自己中心の他を切り捨てる生き方を選んでしまいます。またたいていの場合、その生き方のほうが楽なことが多いようです。自分の好きなように生きるほうが楽しく、気を使わなくていいという間違った個性の尊重を唱える若者が増えています。友達と喧嘩する事を避け、議論を交わすことを面倒に思い、ついには生きることよりも死を選ぶというケースも少なくはありません。私が毎週勤務する教会の幼稚園では、礼拝ごとに「互いに愛し合いましょう」と子供達が声をそろえて聖書の言葉を言います。子供達は難しい事は良く解りません。しかし、友達と喧嘩をしては「ごめんなさい」と互いに赦し合い、小さなダンゴムシやカタツムリを見つけては飼育ケースに入れて、いとおしそうに眺めています。子供達から「互いに愛し合う」ということを学ぶ気がします。私たちが子供達の様子を見て愛くるしく、喜ばしく思うのは、たくさんの愛情を大人から受け、惜しみなくその愛を他のものへ向けているからではないでしょうか。子を持つ親が、疲れた体を奮い起こして職場に出掛け、苦労を惜しまないのは、かわいい子供達の「喜ぶ顔が見たい」という一心に支えられているからです。泣いて嫌われるのを承知で子供の悪さを叱る厳しさも、子供の幸せを思ってのことです。結婚式で涙を流すのも、「喜ぶ顔が見たい」と懸命に生きてきた人生が、報われたと感じるからです。
 イエスの示す愛は、親子の愛だとよく言われますが、正にその通りであると思います。この相互の愛を他者へと向け、隣人を友と呼べる関係を築き、命を懸けて仕えなさいという使命を私たちは受けています。これは、実に難しいことです。私たちを相互の愛へと向けさせてくれるのは、「父の愛、イエスの愛に留まっていること」であります。この愛に留まり、励まされて歩むために私たちは毎週教会に集い、み言葉を聞いて共に食卓を囲みます。イエスが心から喜んで下さる時は、私たちがイエスの教えに従って互いに愛し合い、全てのことが神様のおかげであると心から感謝を表す時であります。「おまえの喜びは、わたしの喜び」だと素直に言える心を持ちたいと思います。また、神様からそう言って頂けるような人生を歩んで生きたいと思います。

 


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