2003年6月8日  聖霊降臨日 (B年)

 

司祭 ヨシュア 柳原義之

 「・・・。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」(ヨハネ18:11)
 イエス様が逮捕される時、弟子たちの抵抗を制止してこの言葉を言われました。しかし、ゲッセマネの園(ルカではオリーブ山)のイエス様は「アッバ父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように。」(マルコ14:36)と祈られています。
 ヨハネだけを読むとイエス様はどんな苦難にも積極的に立ち向かったような印象を受けます。たとえそれが十字架への途上であったとしても。共観福音書に記される苦しみもだえながら祈るイエス様の姿の方が、私たちにはリアリティがあって、「ああ、イエス様も苦しまれたのだ、悩まれたのだ」という共感が起こります。しかしそのイエス様も、「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」との言葉で、ご自分の人生に与えられたものを受け入れ歩きだされたように思います。
 人はいつも悩みに出会うとき、「なぜ私が、そのような出来事に?」「できればこの杯を取りのけてくれ」と叫んでいると思います。まったく悩みのない人間がいるとは思えませんが、次から次へと問題が起きたり、自分だけでは抱えきれない、自分とその周囲の者をまきこむような課題が突きつけられる時、「どうして自分だけが」と思ってしまいます。
 「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」この言葉はよほど腹が座らないといえない言葉ですが、どこかで人はそのような決断をしながら生きているのだと思います。でもその時に「立て、行こう」と呼びかける人、そしてその人生に伴ってくれる人がいるならばとても力強いことだと思います。イエス様は「行こう」と呼びかけた弟子たちに「知らない」と否まれてしまいました。しかし、イエス様は「私はあなたと共にいる」と約束してくださり、そして聖霊をもって「みなしごにはしておかない」と言ってくださいました。
 今、様々な悩みを抱え、自分自身の人生を決断しなければならない人が私の周りにもいます。その人の悩みの上にイエス様の言葉が響きますように。そして私もまったく行動が共にできないまでも、祈りの中で伴うことができますように。
 それにしてもどうして神様は試練を与えられるのでしょうか。


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