2003年6月22日  聖霊降臨後第2主日 (B年)

 

司祭 ミカエル 藤原健久

いちご畑にて

  先日、幼稚園の畑のいちごの世話をしていた。子供たちとのいちごつみの予定が雨で延期になってしまった。そのため、熟しすぎたいちごの実を採らなくてはならない。次のいちごつみの日までもたないだろうからである。畑に行くと、たくさんの実が既に腐っていた。その日は予定していた日から数日がたっていたので、その間に腐ってしまったのだ。やはり予定していた日が、一番の「とり時」であった。いちごの苗を植えた時は、子供たちと「大きくなってね」と一株一株声をかけた。いちごの方は律儀にそのお願いに応えてくれたのに、こちらの勝手な都合で沢山の実を無駄にしてしまって、大変申し訳ない気持ちになった。
  真っ赤に熟した実がある。その下には、虫に食われて穴があいたもの、半分ぐちゃぐちゃに柔らかくなっているもの、そして真っ黒に腐っているものがあった。異臭を放ち、小さなハエとイモ虫がたかっていた。
  さて、それらのいちごを前に、少し考えていた。腐ったいちごは、マルチシートにたまった水や、土や、同じく腐ったいちごの実と接しており、そこから腐ってきたのだろうと思われる。接してきたものによって、実の外側が傷付き、腐ってきたのだろう。しかし、同じように水や土に触れていても腐らない実がある。それは、まだ青い実である。腐るか腐らないかは、その実が置かれている外側の問題ではなく、内側の問題なのである。内側が生き生きしていれば悪い条件の中でも腐らず、内側がすっかり熟れきってしまえば、腐るしかないのである。これは私たちの魂についても言える事ではないか。私たちはいつも神とつながり、神の霊で満たされたい。「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる。」(ヨハネ14:17)主イエスは言われた。「わたしはまことのぶどうの木…わたしにつながっていなさい。」(ヨハネ15:1-4)私たちの魂も、青い実のように若々しくあることが必要だろう。これから伸びていこうとするものには勢いがあり、悪条件でも成長していく力がある。しかし、実際に年齢を経た場合はどうすれば良いのだろう。今から若くなることはできない。歳をとって如何に若くあるのか。それには自分の年齢を「永遠の命」から見直す必要がある。肉体の年齢から言うと高齢者であっても、世の終りへと続く永遠の命から見ると、まだまだ若者である。まだまだ先の世界があるのである。子どもが世界に挑戦し、成長するように、我々も挑戦、成長をやめてはならない。「はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(マルコ10:15)しかし、実際、我々はこの世では力ない者である。永遠の世界を思っても、肉体の命が終われば、この世での全てが消えてしまうのではないか。この疑問、不安には「私たちは一人ではない」という認識が必要である。私たちのこの世での働きは、肉体の死とともに終わる。しかし、必ず私たちの働きを継いでくれる者が居る。私たちが祈ってきた平和、行ってきた愛、守ってきた信仰、それらを必ず継いでくれる人が居る。だから私たちが中途で終わってしまった事でも、必ず誰かが後を継ぎ、世の終りまで、完成に向けてつながってゆくだろう。
  ・・・・・・と、いうようなことを考えながら、いちごの世話をしていた。暑くもなく寒くもなく、過ごしやすい、のどかな日であった。

 

 

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