2003年6月29日  聖霊降臨後第3主日 (B年)

 

司祭 ペテロ 浜屋憲夫

ヤイロの娘

 宗教改革者カルヴァンの共観福音書註解のマルコによる福音書5章36節について書かれた文章の中にこんな言葉がありました。
 『娘の死の知らせは、彼からあらゆる希望を奪ってしまった。何故ならば、彼はキリストに娘をなおして頂く以外何物も求めていなかったからである。』
 この文章の、『何故ならば』という言葉の後は、普通の人間的な考えならば、『もう娘は、戻ってくることは無いからである。』とでもいうような言葉が続くのではないでしょうか。しかし、カルヴァンは、『彼はキリストに娘をなおして頂く以外何者も求めていなかったからである。』と続けるのです。ヤイロがあらゆる希望を失ったのは、娘の死の知らせそのものがその直接の原因ではなく、娘の死の知らせを受けた時に、彼の目の前におられるキリストに対して求めることが少なすぎたのがその本当の理由であるというのです。どうして、その死んだ娘を生き返らせて下さいとそこで願わないのかとカルヴァンは言うのです。ヤイロのキリストへの信頼が足りないというのです。ヤイロの信仰が足らないから希望を持つことが出来ないのだというのです。
 誠に厳しいカルヴァンの言葉ですが、ヤイロが娘の死の知らせを受け、その知らせをもたらした人の、「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」という言葉を受け入れて、そこでキリスト別れてしまったなら、これは全く人間的な思い患いの世界を一歩も越えない、信仰とは全く関係の無い物語になってしまいます。この世界を超えてこそ、信仰の世界の物語になります。その意味で、カルヴァンがヤイロについて語る言葉はとても正鵠を得ていると言わざるを得ません。
 そんなヤイロにイエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい」と語ります。カルヴァンが語るほどの強い信仰を持つことの出来ないヤイロに対して語りかけられたこのイエスの言葉はヤイロの弱さを責める言葉には聞こえません。ヤイロの弱さを深く憐れまれた言葉のように聞こえます。マルコはこの言葉を聞いたヤイロの様子についてはもう語りません。ヤイロは半信半疑だったのでしょうがイエスについて行くしかなかったのでしょう。マルコは自分の娘が生き返ったのを見たヤイロについても何も書いていません。歩き出した少女を見た人々の驚きについては、『それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。』と簡潔に書きます。イエスが少女を起き上がらせる現場に、両親と三人の弟子だけを連れて入られたとあるのが印象的です。深い秘儀は、本当に切実な心を持っている人にしか開示されないという意味なのでしょうか。
 結局、ヤイロは自分の娘の病気をイエスに治してもらったことになるのですが、ヤイロが自分の娘の病気を介して出会ったイエスから得たものは、もちろん娘の回復だけではありません。ヤイロにとってのイエスは、以前に知っていたイエスとは全く違う方になりました。ヤイロは娘の病気を介して、神さまの恵みということについてその本当の意味を知るようになったのだと思われます。
 カルヴァンは、こんな言葉も書いています。『しかし、私たちの信仰の小ささ、いわば、貧しさが私たちにもっと豊かに神の恩恵が注がれるのを妨げているのである。』
 ヤイロがこのイエスとの出会いで得た最大のものは、今まで見えなかった神様の豊かな恩恵の世界だと思うのです。

 

 

 

過去のメッセージ