2003年7月13日  聖霊降臨後第5主日 (B年)

 

司祭 ヨハネ 井田 泉

聖霊の証印

 「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」エフェソの信徒への手紙1:13

 聖霊とは何でしょうか。聖霊は神の愛の火です。火となって燃える神さまご自身です。神は私たちを造り(父)、私たちと共におられ(子)、さらに私たちの心とからだの中に入って私たちを動かされます(聖霊)。神が「三位一体」であるというのはこのことです。
 イエスは「風は思いのままに吹く」と言われました(ヨハネ3:8)。この「風」とは聖霊のことです。聖霊は自由に働かれます。教会を越えて広く、諸宗教の中にも、無宗教の中にも働かれます。
 にもかかわらず神は、教会という場所に固有の仕方で働かれます。礼拝という一定の時間と空間の中に、聖霊が激しく働く場所を用意されます。その大切な場所の一つが「洗礼」です。
 「あなたがたもまた聖霊で証印を押された」。これは洗礼のことを言っています。神は洗礼において、聖霊の証印を人に押される、というのです。神の刻印。神が私たちにしるしを刻みつけられる。どういうことでしょうか。

 第一に、洗礼において神は、イエス・キリストの名を私たちに刻まれます。「あなたはイエス・キリストもの」という証印が私たちに刻まれるのです。生きるときも死ぬときも、イエス・キリストのものとされた私たちは、この方の守りと導きの中にある。悪の力もこの刻印を消すことはできません。
 第二に、洗礼において私たちが受ける聖霊の証印とは、神の愛の火の刻印です。神の愛の火が、洗礼において私たちに触れます。私たちは神の愛の火によって焼き清められます。同時に神に向かって私たちの心が燃えるようになるのです。
 第三に、洗礼において聖霊の証印を受けるとは、主イエスの傷の一部を自分も受けるということです。主イエスは受難の時、茨の冠をかぶせられて、頭と額に傷を受けられました。私たちも洗礼において主イエスの傷を受けるのです。神によって造られ、祝福されたはずの世界が今、傷つき苦しんでいます。イエスは世界の傷、人々の苦しみをご自分の身に負い、和解と癒しのために今も働いておられます。その働きの中に私たちも招き入れられ、私たちも自ら和解と癒しをこがれるように求めていくために、私たちは聖霊によって主イエスの傷を受けるのです。私たち自身の受けてきた傷も、主イエスの傷に結ばれることによって癒されていきます。

 聖霊の刻印。それを受けることは、イエス・キリストの名を自分に刻まれて私たちがキリストのものとされることです。神の愛の火を受けることです。そしてイエス・キリストのあの茨の傷にあずかることです。こうして喜びにおいても悲しみにおいても、生きるときも死ぬときも、私たちはキリストと共にある。イエスの願いが私たちの願いとなり、イエスの祈りが私たちの祈りとなる。主イエスが私たちを通して生きて働かれる。世界と人が癒されるために、私たちもイエスと共に歩む者となる。その歩みの中で私たち自身も癒しを受けるでしょう。そのような人生が、聖霊の証印を受けること=洗礼によって決定的に始まるのです。


 

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