2003年7月27日  聖霊降臨後第7主日 (B年)

 

司祭 ヨハネ 石塚秀司

「恐れることはない。船長が誰であるかを常に思い起こせ!」
【マルコによる福音書6:45−52】

 昔からキリスト教会は、教会の歩みを船旅にたとえてきたと言います。旧約聖書では船を旅の象徴、つまり、この世の困難や辛さ、苦しみの中を行く人生行路を暗示しており、新約聖書においては、もっとイエス・キリストとの関係を強調しながら、この世界にキリストの福音を宣教するという旅のただ中にある教会を象徴していると言います。
 今日の福音書を語り伝えた人たちの思いもここにあると思います。信仰共同体である教会、その教会が福音を宣べ伝えていく中で、逆風に行き悩むことがしばしばあった。あるいは、嵐の中に沈みそうになることもあった。そして主が見えなくなり、信じられないと嘆くことも少なくなかった。でもその度に、主イエスが、み言葉が、再びそして何度でも、見捨てることなく、自分たちを不信仰から引き戻してくださる、そういう体験を繰り返していく中での思いを、この物語を通して語り伝えようとしているのではいないでしょうか。
 かつて、夏の琵琶湖畔で教区のキャンプをした時に歌った歌が好きになり、今でも時々口ずさむことがあります。「悲しみ積んだ船は、どこまでゆくのか。波にもまれこの世に浮かぶ。おいらは船だよ。帰ろう十字架に、イエス様のもと、船が港に休むように、十字架にかえろう」。高石友也の「十字架に帰ろう」という歌です。おいらは船だ。波にもまれてこの世に浮かぶ、多くの悲しみや重荷を積んだ船だ。だからこそ、船が港で休むように、私たちもイエス様のもとに帰ろう、十字架に帰ろう。そこにこそ、本当の癒しがある、安らぎがある、平和がある、そして新たに旅立つ希望と命があるからです。
 私たちはこのような思いを持って、毎週日曜日教会に集まってきます。一週間、この世のいろいろなことに捕らわれ心を乱され、きょうの福音書でお弟子さんたちがそうであったように、鈍くなった心のままで。しかし、この聖餐式の中で、み言葉を聞き、祈りに思いを集中し、心から礼拝をささげるとき、主イエスの存在に改めて気付かされ、心が開かれていきます。そして、十字架のもとにひざまづき、キリストの御体と御血をいただき、癒され、神様の愛、神様の命に生かされていくことができます。
 「おいら」あるいは「教会」という船の船長はイエス・キリストです。どんな荒波の中にあっても、乱れた心を治め、「神様のみ心」という進路を取ってくださる信頼すべき船長です。ところが私たちは、この船長の存在を忘れあたかも自分が船長であるかのように、勝手に思い込み勝手に判断し船を迷走させてしまうことがしばしばです。しかし、そんな私たちがいつでも立ち帰れる所がある、受け入れてくれる港がある。これは何と大きな恵みでしょうか。

 

 

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