2003年8月3日  聖霊降臨後第8主日 (B年)

 

司祭 サムエル 門脇光禅

朽ちない食べ物【ヨハネによる福音書6章24節〜】

 この世で生きてゆくのに必要なものは一般に衣食住と言われる。しかしこれらのうちでどれが最も必要欠くべからざるものはと言えば食物であろう。「何を着ようか、どこに住もうか」と思い煩うのは寒さ暑さを凌ぐ迷いというより利便性や快適性を追求しているように聞こえる。しかし「何を食べようか」思い煩うというと明日の食べ物が現時点では保障されていない事への不安として聞こえて来るのである。元来生き物というものは食物の摂取によってその生命を維持できるのであるから食料の確保というのは個であれ集団であれ深刻な問題であることは昔から変わりは無い。否それ以上に人間は食料の確保のためにしたくもない仕事をしているのが現実である。色々な言葉がある「なにやって食ってるの?」職業を聞く言葉だ。「食っていけない」生活してゆけないという意味だ。「食うに困らない」生活が経済的に安定している状態だ。それほどパン(食料)に対する執着は人間の本能的なものでそれを求めることを否定されたとしたらどうやって生きることが出来るのだろうか。ここで注意したいことはイエスさまは決して食料の確保や摂取のため働くことを否定しているのではないということだ。そもそも群集の質問は「どうしてこんなに早くここカファルナウムに着くことが出来たか」であった。イエスさまはそんな問題に答えている場合ではないので確信にふれる答えが返ってくる。愚問に対しても真理を解かれる誠実なイエスさまを見ることができる。イエスさまの言いたかったのは「如何にして神さまの恵みが群衆を養うことができるかということに思いを馳せなさい」ということだった。5000人もの人間が肉体的空腹感を解消させられた事実は消費されたパンの量ではなく神さまの恵みを実感するべき満足であるべきだと言われたのである。意識を胃に集中するあまり魂を忘れている状態と言えるだろう。まったく人事ではない。「そう言っても背に腹変えられないだろう」と言いたい気もするが背に腹変えるのが神さまなのだと思う。飢えには二種類ある。物で満足できる肉体的飢えと物質的なものでは満たしきれない霊的な飢えである。イエスさまはこの霊的飢えを満たしてくださる方なのである。かのアシジの聖フランシスが言われた「空の小鳥さえ養って下さる神さまがどうして小鳥よりすぐれている私たちを養って下さらない訳があろうか」の信仰を思い浮かべる素敵な聖書箇所だ。

 


過去のメッセージ