2003年8月10日  聖霊降臨後第9主日 (B年)

 

司祭 パウロ 北山和民

「8月に食べる『命のパン』」

 「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。…あなたを苦しめ、飢えさせ、…マナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申命記8章2〜)
 「わたしは命のパンである。…わたしは天から降って来た生きたパンである。」
                                             (ヨハネ6章48〜)
*7月20日以降、聖書日課(福音書)はパンの出来事およびパンに関係する内容が続いて来ました。「パンの出来事」は教会にとって中心的なイメージです。「心を鈍く(マルコ6:52)」しないよう、今週も福音を聞きたいと思います。

 「人はパンだけで生きるのではなく…」とは、「武士は食わねど…」のようにパンを軽視しているのではありません。主の言葉(出来事)こそがパンを「まことのパン」にすることができるというのです。ちなみにヘブライ的に「正義」とはパンが正しく分配されている具体的な状態のことです。 逆に「まことのパンでない」パンとはどういうものでしょうか。平和を祈るこの8月、不信と争いの世界、歴史の悲惨さに目を向ければ、想像するのに難しくない。独占され、戦争や分裂の原因となるパンのことである。パンの本来の姿、すなわちマルコ6:30〜44にあるように、人が集り、分かち合いを学び、満腹し和解し、そして散っていく…(これは礼拝、聖餐式の姿ではないか!)…このパンの出来事、礼拝の姿を一日も早く実現したいと願っている人(特に子どもたち)が如何に多いことかと気づきます。神様はもっと早く気づき、イエス様において為すべきことを全てやってしまわれたのかもしれません。 この福音の事実を巡って、今日のヨハネ福音書は、イエス様ご自身がパンとなられたと宣言しています。わたしたちにとって「聖餐式は神の恵み」となったのです。しかしその恵みは「パン」を受ける毎に新たにされる「生きている」ものだという厳粛さをわたしたちはどれほど理解しているでしょうか。聖餐式というのは、パンが象徴する現実社会と、生者と死者と(未来の子孫たちも)の命の「本来あるべき姿」を現し、すべては神の支配に立ち返ることを先取りしている壮大なものです。つまり私達自身の命がイエス様(パンの出来事に入ること)において神の命に移ることが可能となり、あなた自身が「世に在るまことのパン」になるという、信じられないほど大それた出来事なのです。わたしたちはもはや神の憐れみの対象でもなければ、世の悲惨と不正に良心を痛めながら「しかたない」と自己憐憫する存在などではなくなってしまった。今や正義と公正という名の神の代理者となり、イエス様に用いられることは如何に自由なことかを知る者となった。神の恵み、聖餐式とはこれなのです。
 支配者たちによって消されていく民衆の歴史を「忘れるな、心を鈍くするな」と繰り返し紡いでいくのは8月だけの人の営みなどではなく、イエス様が「父」と呼んできた神の業にほかなりません。この神様の意志と、世に対して「わたしは命のパンである」とご自身を開いたイエス様の思いが、そして聖餐式を行うわたしたちの喜びが、どうかひとつとなりますように祈ります。 


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