2003年8月24日  聖霊降臨後第11主日 (B年)

 

司祭 サムエル 小林宏治

「永遠の命の言葉」【ヨハネによる福音書6:60−69】

 今日のみ言葉の箇所は、ヨハネによる福音書第6章の最後の段落にあたる。この章の冒頭にはイエスに会いたいと「大勢の群衆が後を追った」と記されている。イエスが病人たちになさったしるしを見たからであった。イエスのなさったしるしは、人々にとって、王としてふさわしい方だという確信を起こさせた。一方、今日のみ言葉には、そのような人々の反応どころか、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」と記されている。あれだけ多くの人々を引き付けたしるしは、ここに来て意味のないものとみなされたのだろうか。
 イエスの語るみ言葉は、群集やユダヤ人、そして弟子たちに向けられていた。彼らに対して、ご自身が「命のパンである」と教えられた。イエスのみ言葉を聞いた人々はいろいろな反応を起こしたが、その決定的な反応は弟子たちの多くがイエスから離れ去ったことである。イエスの身近にいて、よりイエスのことを知りえた彼らが、イエスを信じられなくなったのである。彼らが求めていたしるしと、イエスが示すしるしに違いがあった。彼らの思いとイエスの思いが異なっていた。そのことに気づいた彼らはイエスのもとから離れ去ったのである。イエスにとって話さなければならない話は、彼らにとって、実にひどい話であった。聞くに堪え得ない話であった。
 そのような話がすべての人にとってのひどい話ではなかった。イエスは最も身近にいる12人に、「あなたがたも離れていきたいか」と言われた。それに対して、シモン・ペトロが「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」と応えた。ペトロの応答は、イエスのなされたしるしが、真に求めていたしるしであったことを明らかにする。イエスのなされたしるしが、多くの弟子たちを離れさせた原因となったが、一方、同じしるしがイエスへと導くものとなった。聖書には「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることができない」と示されている。彼らはその確信を神様の導きの下に得られたのである。イエスと共に歩むことを許された弟子たちの姿である。
 イエスの12人に対しての問いは、私たちにいつも確かめるように促す問いなのかもしれない。その問いに応えるには、「わたしは命のパンである」というイエスのみ言葉を真にこの身に受け入れることができるかによる。他の人の確信ではなく、わたしたち一人一人のイエスへの信仰がそれに応えるのである。

 

 

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