2003年10月19日  聖霊降臨後第19主日 (B年)

 

司祭 マタイ 西川征士

分かっちゃいない罪(マルコ10:35−45)

 今日の福音書の記事は、イエス様が三度目の十字架の予告をした後のものです。
 ヤコブとヨハネの兄弟が、その重大な十字架の予告を勘違いして受け取っていることは明らかでしょう。イエス様がイスラエルの王座に着かれるのだと思い、その王座に着かれる時、自分たち兄弟を側近(右大臣・左大臣)にして下さいと願い出たのです。イエス様の、十字架という神のみ業、イエス様の御心を理解せず、この世的かつ人間的な事柄を考えていたのです。
 ちょっと前に、十二人の弟子が、「弟子たちの中で一番偉いのは誰か」という、これ又極めて人間的なことを議論していた時、イエス様は「一番偉くなりたい者は仕える者になりなさい。」と、今日の福音書の記事と殆ど同じことを言って、弟子たちをたしなめられました。
 更に、一回目の十字架の予告の時も、ペトロがイエス様をわきへお連れしていさめたことが書かれていました。"めっそうなことを言わないで下さい。そんなことがあってたまりますか"位のことを言ったのでしょう。それでイエス様はペトロに「お前は神のことを思わないで人間のことを思っている。」と言って大変お怒りになりました。
 弟子たちはあれだけイエス様から教育を受けていたのに、本当はいつもイエスさまのみ心と神のみ業を理解せず、極めてこの世的・人間的なことばかり考えていたのでした。これが人間の実態というものでしょう。人はいつも富や財産、名誉や地位といった、この世的・人間的な事柄ばかり追求し、そういう心に支配されて生きてしまっているのが現実の姿ではないでしょうか。有名なイエス様の「山上の説教」で、「何を食べようか、何を着ようかと命のことで思いわずらうな。」と教えられたことを私たちはすぐ忘れてしまう悲しい人間です。この人間の"分かっちゃいない罪"は重大です。イエス様が十字架にかかって死なれたのは、何のため、誰のためだったのでしょうか。
 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(45節)と語られていますが、これこそ十字架の奥義です。ヤコブとヨハネに「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」(38節)とイエス様が言われたように、"分かっちゃいない事"自体が罪なのです。弟子たちも私たちも"分かっちゃいない罪"に支配されているのです。
 聖パウロも「わたしは、自分のしていることが分かりません。」(ローマの信徒への手紙7:15)と、自己のこの深い罪を嘆いています。また、イエス様が十字架上で、左右の強盗、自分を死に追いやったユダヤ教指導者、官憲、群集、手を貸したローマの兵卒のために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と父なる神に祈られました。勿論これは私たち人間一人一人のための祈りでもあります。人間の、この「分かっちゃいない罪」のためにこそ、主は十字架で死に、その罪を贖ってくださったのであります。
 自分の利益や栄誉を求めようとするのではなく、神のみ心が行われることが一番大切なのであります。それ故、「主の祈り」で教えられているように、「み心が天に行われるとおり、地にも行われますように」と、私たちも、もっともっと真剣に祈らねばなりません。でも、もっと大切なことは、あの十字架上からの祈りを聞いておられる天の父なる神が、「分かっちゃいない罪」に支配されている私たち対して、「よっしゃ、よっしゃ」と言って下さっていることを知ることではないでしょうか。

 

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