2003年11月9日  聖霊降臨後第22主日 (B年)

 

司祭 クレメント 大岡 創

「律法学者と貧しいやもめ」【マルコ12:38−44】

 律法学者と貧しいやもめとの対照的な姿が登場いたします。律法学者への批判でありながら、当時の人々の陥りやすい信仰生活についての批判でもあります。
 わたしにとってこの箇所はいまだにある光景を思い浮かばせてくれます。それは、神学生になった時、実習教会でいきなり「先生」と呼ばれたときの衝撃です。それは端に日曜学校の教師という意味で「先生」と呼ばれていたのですが、いつのまにか慣れてくると逆に「先生」と呼んでもらえないことに違和感を覚えたりするそんな現実を物語ってくれます。
 本日の福音書は人が自分をどう見ているかに心が奪われてしまい、神さまに自分をささげることをおろそかにしてしまうことへの警鐘です。
 やもめは「自分の持つすべてをささげた」ところに大きな意味をもちます。ポケットの中にレプトン銅貨1枚を残し、生活の保証を得るという選択をしませんでした。
 わたしたちは神から与えられた賜物を自分の得意とする範囲で差し出すことが多いのではないでしょうか。それ自体とても素晴らしいことですが、かたや「人によく思われたい」「人によく見せたい」という思いと表裏一体でもあるのです。ささげるとは自分にとって痛みをともなうものであることを今日の福音書は語ります。それは、自分のためにしか関心を持たない生き方か、神さまに自分の弱さをも委ねて生きようとするのか、というわたしたちへの問いかけです。
 このやもめがレプトン銅貨2枚(生活費のすべて)をささげたこと、それはイエスさまが十字架にかかられる姿ともオーバーラップします。すべてを投げ入れることができたのは、必死になってなりふりかまわず神に身を委ねる向こう側には自分の思いをはるかに超えたいのちがあることを素直に信じていたからではないでしょうか。
 それは決して「わずかなささげもの」ではなく「乏しい中から自分の持っているものすべて・・」をささげたことによってさらに豊かなものにしてくださるのだと。
 わたしたちが神さまを愛すること=隣人を愛することのゆえに自分自身をささげることができますように。そして、何よりも神さまへの信頼、神さまにすべてを委ねる勇気が与えられますように。


 

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