子ろばに乗られた真の平和の王

司祭ヤコブ岩田光正
ところで、今でも世界の都市部では光の部分とは対照的に、貧困や差別などで小さく生きることを余儀なくされた人々の生きる陰の地域が存在します。
エルサレムは、この光と陰の住み分けされた都市でありました。
福音で、一行はこの日エルサレムに留まらず、ベタニヤに向かっています。
因みにベタニヤの地名には、「悩む者の家」とか「貧しい者の家」という意味があるそうです。つまり、このベタニアは、エルサレムとは対照的な、光と陰で言えば陰の地であったのです。
今週の福音の物語で、イエス様は子ろばの背中にまたがり、エルサレムへの入城をされました。イエス様のこの行為は明らかに、新しい支配者が勝利して凱旋する姿をエルサレムの人々に伝えるためです。イエス様はどのような意図から子ろばに乗って入城されたのでしょうか?普通、支配者は、人を威圧する様な大きな軍馬に乗るものです。ろば、しかも小さく未熟な子供のろばに乗るなど、実にこっけいです。
ろばについて興味深いのは、神殿での献げる家畜に関する決まり事です。その決まり事では、家畜の中でろばの子は、神の献げ物に相応しくない家畜とされていたのです。イエス様は、何故、敢えてそのような子ろばに乗って神殿のあるエルサレムに入られたのでしょうか?しかも、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回られたとあります。
そして、エルサレムの城内や神殿内を回られた後、夕方になると一行は都に泊まらず、ベタニヤに向かうのです。注目したいのは、繁栄と権力の中心、神に一番近いと言われた光の都ではなく、貧困と差別で周辺に追いやられた陰の村に行かれたことです。明らかにこれは皮肉とも挑戦とも言える行動です。イエス様は、何を伝えようとされたのか、それは真の平和とは何か、また、真に神の救いに一番近い場所とは一体どこにあるのか、そのことを主は教えられたのです。
さて、子ろばに対し、強そうな馬…
例えば今日の世界を見回してみた時どうでしょうか?超大国と言われる世界中の国々が強力な兵器、大きな軍事力を保持することで平和を保持しようとしています。また世界中が、経済成長の名のもとにその規模の大きさを競い合っています。また、そのような社会に飲み込まれている私たちは常に他と比較したり、競い合うことを余儀なくされて生きているのが現実です。このような社会の中で、私たちは目に見えない神様に信頼することを忘れてしまい、大きく強そうな「馬」に依存して生きている、そのような社会が「平和」と呼んでいる今の私たちの世界です。
エルサレム、まさにこの権力と繁栄の都は、今日の国家権力と消費社会に支えられた大都市を連想します。ところで、繁栄した大都市にはそのような華やかな光があります、しかし、私たちはその一方で、大都市やその周辺には、光とは対照的な陰、社会を底辺で支える人々が貧しくされていたり、また今なお差別を受けている人たちの生きる場所があることを知っています。エルサレムに対するベタニヤの村です。
イエス様は子ろばを用いてエルサレムに入城されました。その後、エルサレムに留まらずベタニヤに行かれました。イエス様は大きな馬(権力や富)に信頼して、神様から離れていたエルサレムに行動で示されたのです。子ろばの様に小さく貧しい者となりなさい、そしてご自分に立ち帰りなさい。大きな馬だけで真の平和は生まれないこと、反対に真の平和は子ろばになること…イエス様はこのメッセージでこの都に悔い改めさせようとされたのです。同時に小さく貧しい者たちこそ神の救いに近いこと、そしてこのような神様の前に小さな者をこそ神様はご自分のご用(真の献げ物)として用いられること…そのことを伝えようとされたのです。
最後、来主日から降臨節です。その間、私たちは、救い主を待ちます。この救い主こそ私たちにとって真の平和をもたらす王です。私たちはこの降臨節に表面的な光ばかりに魅了されず、むしろ自分の暗く貧しい心の陰を見つめるべき時です。その先にこそ私たちは心の底から歓喜してイエス様をお迎えできることでしょう。
(降臨節前主日の福音より

 

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