イエス様の「荒れ野」の誘惑が意味すること

司祭 ヤコブ岩田光正

 

 「それから霊はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。」(マルコ1:1213a
   大斎節が始まりました。40日は、イエス様が40日間、荒れ野で悪魔から試みを受けられたことに由来します。
    荒れ野は、神を信じることができなくなるような厳しい世界です。かつてモーセに導かれてエジプトを脱出したイスラエルの民は40年間、荒れ野を旅しました。しかし、試練の中で、人々は金の子牛の像を造り拝みました。神はこの荒れ野にあって自分たちを見捨ててしまった、あるいはどんなにお祈りしても何も応えてくれない、荒れ野とはこのように神はおられないというような不信仰を生みだす世界です。
 この荒れ野でイエス様も悪魔の誘惑を受けられたのです。しかも、「霊は…送り出した」とありますように、それは神さまの意思によってでした。
続くこの後の言葉が目を惹きます。
「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」(1:13b)
 野獣は人に危害を与えます。しかし、イエス様はこの野獣と共におられ、傍では天使たちがイエス様を守っておられたとあります。
この言葉は、イザヤ書の11章、「平和の王」が治める時に実現するであろう「楽園」の様相を思い起こさせます。
「狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。…乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ幼子は蝮の巣に手を入れる。」
 この時、荒れ野には「楽園」が生まれました。この「楽園」、それは神さまが天地万物を創造された原初の楽園、アダムとエバが蛇に化けた悪魔の誘惑に負けたために失うことになったあの「エデンの園」でした。本来、神さまの創造された世界は、神のみ守りの内に人と野獣が共存する楽園でした。しかし、神のように賢くなりたいという願望から禁断の果実を食べてしまい、人は楽園から追放されてしまいます。何故なら神さまのいないことを人が欲したからです。同時にこの時人に荒れ野の生活が始まりました。また共存していた野獣との対立が始まりました。
    こうして荒れ野は神によってではなく、人の罪によって作り出されたのです。
  ところで、現代の社会はどうでしょうか?人は神さまなど最早いらない、自分たちで生きていけるだけ賢いと思っている。また野獣を殺し、自然を破壊し、貪欲に自然を消費しています。その挙句、人と人が争い、殺し合っています。ある意味、私たちの生きるいまの現実も荒れ野と呼ぶことができないでしょうか?
 しかし、私たちは今週の福音でイエス様がこの時、悪魔の誘惑に勝ってくださった、アダムとエバのように負けなかったことを知っています。それは、再び悪魔と戦って勝利してくださったことであります。しかも、神の子でありながら私たちと同じ人として、神ではなく人として勝利してくださったのです。この事実は私たちにとって大きな救いと希望です。何故なら、私たちはイエス様によって悪魔の誘惑を退け、再び「楽園」に至るチャンスを神さまから与えられていることを知ることができたからです。
   この後、イエス様は神の国の到来を宣言し、人々に福音を告げ知らせながら、十字架に向かって歩んで行かれます。それは私たち人類の罪を贖い、ご自分の「楽園」に立ち帰らせることを望む神さまの意思を果たすためでした。
 最後、大斎節の間、私たちは神様の慈愛とイエス様の荒れ野での勝利を日々心に留めて過ごしたいものです。
(大斎節第1主日の福音から)

 

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