『弱い神さま』
受難物語を読むために
四月四日 復活前主目説教から
司祭ペテロ 浜屋憲夫復活前主日から始まる聖週に集中して朗読されるイエス様の受難物語を読むための「視点」というようなことを考えてみたいと思います。それは、「弱い神」、「無カな神」、「沈黙する神」、「何もしてくれない神」というような見方です。普通に語られる「強い神」、「力ある神」、「語りかける神」、「何でもかなえてくれる神」という見方の反対です。
受難物語で語られる神は、まことに「弱い神」であります。イエス様と一緒に十字架にかけられた犯罪人が言うとおり自分を救うことも出来ない「弱い神」であります。
十字架に架けられる前の夜、イエス様は、苦しみもだえ、血のしたたるように汗を流して祈られました。力無く悩み祈る神であります。人々の暴力、あざけり、侮辱に何の低抗もなさらない、出来ない神であります。受難物語を味わうというのは、この弱い、無力な、何も出来ないイエス様の姿に直面すること。この無力な神の意味を考えるということであります。
神というのは、カあってこその神ではないか、あのホサナ・ホサナと叫んだ人たちは、もちろんそう考えて、イエス様に彼らの望む力を期待したのです。しかし、イエス様は、その彼等の期待に全く答えられなかつた。だから、彼等の「ホサナ、ホサナ」は、「殺せ、殺せ」に変わりました。当然といえば、まったく当然です。
それでは、この受難物語で私たちが出会う「弱い神」は、私達にとってどんな意味があるのでしようか。
本日の使徒書は、こう語ります。『キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえつて自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。』
ここでパウロが言っているのは、まさに「無カな神」のことですね。「人間と同じものになる」というのは、神のカを捨てるということであります。「十字架の死に至るまで従順だった」というのは、全く何も出来なかったということであります。しかし、聖パウロは、そう書きながらすぐにこう続けるのです。
『このため、神はキリスドを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。』
パウロが「このため」という意味は、神が無力になったということであります。無力になられたが故に、高くあげられたのだと言うのです。無力な神だからこそ人を救うことができる神になられたというのです。
ご自分も悩み苦しみ、痛み悲しまれる神だからこそ、私達人間の悩み、苦しみ、痛み、悲しみを受け止めてくださる神だとパウロは言うのであります。
また、イエス様の無力さの意味は、このように人間の弱さに共感して下さることだけではありません。イエス様の無力さは、その周りの人たちの人間性を鋭く深く暴き出します。群衆の身勝手、ポンテオ・ピラトの無慈悲、ペテロの弱さ、祭司長や議員達の残酷さ、イエスの周りの女性達の優しさ等々…「強い神」の前では「良い格好」をする人も、弱い神の前では、本音、本性をさらけ出してしまうのです。
「強い神」ではなく、「弱い神」だからこそ、人々の弱さを受け取り、また人々の本心を暴き出すことができるのであります。
そして、もう一つ。一弱い神」だからこそ、私達が近づき、一緒にいることが出来る神なのであります。
私は五十五歳になりましたが、人生の経験を色々積んで、また父親としての経験も色々積んで、最近やっと、この「弱い神」という考えの深さ、ユニークさに気が付くようになったような気がします。自分が神学生の時に尊敬していた先生の年になり、また自分が高校生、大学生だった時の父親の年になり、こう思うようになってきました。「先生も父親も、学生や子供には見せないが、本当は弱く、悩み、苦しむ人だったのだ」と。
しかし、子供や学生は、あくまで立派で強い父や先生が欲しいのです。子供や学生は、父親や先生はどんなに攻撃しても壊れないものだと思って安心して攻撃したり、非難したりするのですが、本当は弱くて、脆いものなのです。その弱さ、脆さを受け入れることが出来た時に始めて父や先生と本当に共感しあえるようになるのではないでしょうか。
神と人との関係も同じではないかと考えるのです。神は完全ということだけではない。神もまた弱いと思えた時に、初めて神が身近になってくるように思えるのです。