『イエス様をお迎えする心』
聖霊降臨後第十主日説教から

司祭 ペテロ 浜屋憲夫

    牧師という仕事をしていると、普通の人には経験出来ない、いろんな事を経験出来ます。 そして、そんないろんな経験の中でも、とりわけ牧師でなければ経験出来ないと感じられるお恵みは、いろんな人との出会いであります。今日は、福音書からお話をしたいと思っているのですが、その前にそんな私の出会いの経験の中の一つをお話したいと思います。それが、本日の福音書を味わう助けになるのではないかと思うからです。   

    それは、突然の電話から始まりました。若い女性からの電話で、自分のおばあちゃんの事で相談したいとの事。早速教会に来て頂いてお話をしたのですが、そのおばあちゃんが病気なのだが、どう説得しても入院してくれない、悩んでいたのだが、ある時ふとおばあちゃんが若い時教会に行っていたのを思いだした。教会の牧師さんの説得だったら入院してくれるかもしれないと思って、こうして頼みに来たのですとおっしゃる。そのおばあちゃんというのは、そのとき九十三歳くらいだったと記憶しています。その女性は、いろんな事情があり、そのおばあちゃんに育てられたとのこと。そして、そのおばあちゃんが教会に行っていたというのは、なんと七十年前のことらしいのです。そして教会は、聖公会だったらしいのです。とりあえず、訪問を約束してその女性は家に帰られたのですが、その日のうちに電話がかかってきて、なんと私と話をして家に帰ったら以心伝心というか、既におばあちゃんは入院する決心をしておられたというのです。私が説得するまでもなく、その女性が教会に来ただけでその女性の願いがかなったわけで、とても不思議な気持ちでしたが、その女性の願い通り、おばあちゃんは入院されてよかった、よかったとなったのです。そして、それを機に私は週に一回そのおばあちゃんを病院にお見舞いすることになり、一ヶ月くらいたった頃、亡くなられたのです。勿論、お葬式は私がさせて頂きました。本当にたった一ヶ月足らずのおつきあいでしたが、実に印象に残る出合いでした。

   そして、その出会いそのものもそのように非常に印象的なことでしたが、私にはその出会いに関して忘れられないことがあるのです。それは、私がそのおばあちゃんを訪問して家に帰ると、家内が、「あなたは、あのおばあちゃんのところから帰ると全然違う人になっている。神々しい感じがする。」と言ったのです。私は、その家内の言葉を聞いて、そんなオーバーなという気持ちもありましたが、納得するところもあったのです。それは、あのおばあちゃんが駆け出しの牧師の私を実に心を込めて『牧師』として迎えて下さったからです。七十年前の信者さんが牧師を迎える迎え方はこんなものだったのかなと思った位、丁寧に迎えて下さる。しかし、全然堅苦しいわけではない。実際私はそのおばあちゃんを訪問するのが、とても楽しみだったのです。そのおばあちゃんの迎え方が、私を『牧師』にしたといって良いかもしれません。そう迎えられると、そうなってしまうのです。

    この話を紹介させて頂いたのは、今日の福音書の、『腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。』 という言葉を皆様と一緒に深く味わいたいと思ったからです。私達のイエス様を迎える心のことであります。イエス様を迎えたいと切に願う心が、本当にイエス様を迎えます。その人はお迎えしたイエス様によって清められ、慰めを受け、励まされるのです。あのおばあちゃんは、イエス様を迎える心で駆け出しの牧師である私を迎えました。そして、私を通して、私の力を遙かに超えたイエス様に出会ったのだと思うのです。 迎える心の清さ、切実さが、迎えられた私を清めて下さったと言っても良いかもしれません。

    逆に、そのような求める心の無い人は、どんな出会いが与えられても、その出会いを通してイエス様に出会うことは無いと思うのです。もう一度、今日の福音書から御言葉を味わいましょう。
「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
    いつも、どんな出会いにあっても私達の心を開いて、イエス様をお迎えする用意をしていたいと願います。        アーメン



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