『取るにたりない僕』
聖霊降臨後第十八主日説教から
司祭ペテロ 浜屋憲夫
今日の福音書は、弟子達がイエス様に一つの質問をしたところから始まります。「わたしどもの信仰を増してください」という質問です。この質問にたいするイエス様の答えはなかなか厳しいものです、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」あたかも弟子達には、からし種一粒の信仰ないかのように受け取られるような言葉です。
また、それに続けてイエスさまは、一つの譬え話も併せて語られるのですが、その譬えの中では主人と僕の関係にっいて、僕は主人のどんな命令でも『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。』と言って引き受けなければならないものだと答えられます。弟子達の「わたしどもの信仰を増してください」という質問に対して、あまりにも厳しく突き放した答えのように思われます。何故イエス様はこんなに突き放すような厳しい、冷たいとも思われる答えを弟子達になさったのでしょうか。
どうもイエス様はこの「わたしどもの信仰を増してください」という質問の中に、誠実で、真面目な意図ではなく、「自分には、相当な信仰がすでにあるのだけど、もっとこの信仰を増やして、もっと立派な自分になりたい」というような、一種傲慢な気持ちを聞き取られたように思われます。
弟子達の中に信仰ということについて、深い勘違いがあった。イエスさまは、その勘違いを正すためにこのように厳しい言葉を語り、より深い信仰に弟子達を導こうとされたのだと思われます。
信仰は、強いとか弱いとか、多いとか少ないとかのことでは無い。強いとか弱いとか、多いとか少ないとかいうのは自分の業については語ることができても、信仰には関係の無い言葉。本当の信仰はそんな「自今自分、自分」がつぶされたところ、空しくされたところ、本当に悔い改めたところから始まるものだ。からし種一粒でもそのような本当の悔い改めがあれば、あなたが今見ている世界と全然違う世界が見えてくるのだと弟子達に教えておられるのであると思われるのです。
このお語についていろいろ考えを巡らしていた時に、あのオリンピツクのマラソンで、突然の乱入者に妨害されて、もしかしたら金メダルをとれたかもしれないのに、鋼メダルになったブラジルの選手のことが思い出されました。
ご存じの通り、あのマラソン選手は、あんな妨害にあったのに、実に爽やかに振る舞って、世界中の人々を感動させたのでした。普通ならあの乱入者に対する怒り、恨みの一言があっても全く不思議ではない状況で、本当に爽やかな喜びのほほえみを見せてくれたのでした。オリンピツクが終わった後のテレビのインタビューでもその印象は全く変わりませんでした、オリンピツクに出られたこと、そしてメダルを取れたことで自分は十分に嬉しいのだと、なんの気負いも無くおっしゃっていました。眞に、今日の福音書の、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』という言葉そのままの姿でした。あのマラソン選手の喜びは、金を敢った選手の喜びとは、違う種類の喜びのように思われます。テレビのインタビューでは、彼が日本の小泉首相にプレゼントした小箱には、自分が大好きな教会の絵が描かれていたと言っていました。彼のあの爽やかさは、やはり、ブラジルのカトリックの信仰の伝統が育んだ『からし種一粒』の信仰だと思われたのでした。
そして、この選手の信仰の対極にあるのが、あの乱入者の信仰です。あの乱入者は、元カトリックの神父だと書います。テレビでは、ラウンドカラーを着けた神父の姿の写真もでていました。また乱入した時持っていたプラカードには、終末論的な裁きを語るような言葉が書かれてありました。
実に馬鹿げた、とんでもない行為なのですが、あの男の考えの中では、あの乱入は『信仰に基づく行為』だったのです。テレビのインタビューでも全く反省はありませんでした。実に『狂信』、狂った信仰の見本のような男でありますが、先のブラジルの選手が、「からし種一粒」の本当の信仰の世界に生きているのにたいして、この元神父は、「私達の信仰を増やして下さい」という世界に生きているように思われました。そういう世界の極端な姿であると思われました。
自分の信仰をもっと、もっと、追い求めることが、神様の世界から遠ざかることもあるということの極端な見本のように思われたのでした。