『ザアカイさんの明るさ』聖霊降臨後第二十二主日説教から

 司祭ペテロ浜屋憲夫

 

 今日の福音書は有名なザアカイさんのお話です。大人にも、子どもにも愛されているお話ですが、このお話がそんなに愛されていることには、やはり理由があるような気がします。それは、このお話全体が何となく、明るい、ユーモアにあふれている感じがするからではないかと思います。ユーモアというよりは、少し下世話な言葉で言いますと、ちょつとずっこけた陽気さにあふれています。そして、そのユーモアというか、ずっこけさがこの語を読む人を何となく嬉しい気持ちにしてくれます。

 背の低い、ちっちゃなザアカイさんが、あの有名なイエス様を一目みたいけど人混みの中で、背の低いザアカイさんは全然イエス様を見ることが出来ません。なんとしてもイエス様を見たいから、木に登つてしまいます。いよいよ、イエス様がこられたら、何とイエス様の方から、「ザアカイ、今日はお前のところに泊まる」と、全く思いもかけない言葉がかけられます。びっくり、びっくり、そして、嬉しくて、嬉しくて、ついつい、とんでもないことを口走ってしまいます「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」ある注釈者が、このザアカイさんの言葉について、「ザアカイが、この後本当にこの約束を実行したかどうかは、そんなに問題ではない。ザアカイが、喜びのあまり、殆ど何も考えないでイエス様にこんな大変な約束をしてしまうというオッチョコチョイとも思われるそのことに、ザアカイの救われた喜びが表現されている」と書いておられました。本当にそうだと思います。何か、その背のちっちゃなこと、一所懸命なあまり木に登ってしまうこと、思わず実行できるかどうかわからない大変な約束をしてしまうこと等々、この物語を構成する要素の一つ一つに、なにか喜劇的な雰囲気が感じられます。

   そして、このザアカイさんの物語が、何か明るく、ユーモアを感じさせるということはこのお話を味わう上で、そんなに軽い、どうでも良いことではなく、実はとても本質的に重要なことなのではないかと私は思っています。それは、先ほど引用しました、この物語が感じさせるこの明るさ、陽気さ、ユーモアが、他でもない、このザアカイという人がイエス様に出会った喜び、嬉しさ、言い換えれば「救われた喜び」から直接に出てくる、明るさ、陽気さ、ユーモアだからであります。それは、イエス様自身の言葉としてルカが伝えている言葉が明確に言っています。

 「今日、救いがこの家を訪れた。」 このザアカイさんの物語の「明るさ」の意味を味わうために、同じようにある男がイエス様に出会ったのに、全く違う雰囲気を感じさせる物語をルカが、このお話の直前に書いていますので、その話を見てみましょう。
  
それは、ある金持ちの議員がイエス様に、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたお話です。

 その人に対して、イエス様は『あなたがすでに知っている『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな父母を敬え』という掟を守るだけだ。」と答えられます。するとその議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言います。これを聞いたイエス様は続けて言われます。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」 しかし、「その人はこれを聞いていて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。」とルカは書いています。

 同じようにイエス様とある人が出会った話、同じようにイエス様に何かを求め、尋ねている話、そして同じように、財産のことに触れているお話でありながら、この話は、「その人はこれを聞いて非常に悲しんだ」という言葉のとおり、何とも言いようの無い暗さ、淋しさ、悲しさに満ちています。

 この違いが、救われた人とそうでない人の違いだと思います。この育ちも良いし、教養もある、また道を求める心も持っている金持ちの議員の暗さ、寂しさ、悲しさがどこから来ているのかということが問題なのではないかと思います。

 この人は、「救い」ということについて深く勘違いをしています。「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という質問自体がハッキリ語っているように、この人は、「救い」というものは、自分が何かをすることによって獲得出来るものだと思っています。イエスさまの「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。それから、わたしに従いなさい。」と言う言葉は、文字通りそのようにしなさいということではないと思います。自分の力で何か出来ると思う、その考えを捨てなさいということだと思います』

 しかし、この人はついに、自分を捨てることが出来なかつた。自分にこだわり、自分を捨てることが出来ない故に、この人は本当の意味で人と共に生きることが出来ません。それ故の暗さ、寂しさ、悲しさがこの議員とイエスの出会いの物語にあります。この議員は、現にイエスを目の前にしているのに、「イエス様との出会い」を経験出来なかつた。この人の人生は、イエスと会っても何も変わらなかった。そこにこの人の致命的な暗さがあります。

 ザアカイさんはこの議員とは正反対です。ザアカイさんは本当にイエスと出会いました。そして、イエス様と出会ってザアカイの人生は変わりました。イエス様と出会い、イエス様に声をかけられ、この人こそ自分が求めていた人だとザアカイさんはわかったのです。そして嬉しさに我を忘れてしまいました。

 この我の忘れ方が本当に、可愛く、嬉しく、愛すべき姿であり、これこそ救われた人の明るさであるとルカは私達に伝えているのであります。

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