『降臨節第二主日の特祷・日課について』降臨節第二主日説教から

司祭ペテロ浜屋憲夫

降臨節第二主日です。降臨節や、大祭節また復活節のようなテーマがハッキリしている季節の特祷、日課は、全体がその季節のテーマで統一して選ぱれています。ですから、このような季節には、そのことを意識して特祷、日課の朗読を聞きますとやはり、味わいが違います。

 今日は、そのような観点から、特祷と三つの日課全部について、少しづつお話をしてみたいと思います。

 特祷からです。先ず、祈られているのは、神様が私達人間のために、悔い改めを宣べ伝え、救いの道を備えるために、予言者たちをつかわされたということです。そして、次に罪を捨てる恵みを私達に与えて下さいと祈り、イエス様がこられるのを喜びをもって迎えることができますようにと祈って終わります。

 立教のチャペルで変なクリスマスツリーを見たことがありました。普通の家で飾るような大きさのクリスマスツリーでしたが、何故変かといいますと、普通にツリーにぶら下がっているベルとか星とかキャンディーとかというようなものが下がっていなくて、何か銀色のリボンのようなものが沢山下げられているんですね。よく見てみると、それに何か字が書いてある。学生たちのいろんな願い事が書いてあるのです。どんな願いが書いてあったかはよく覚えていないのですが、私はとても変なものを見たという気持ちでいっぱいになつて、あとで大学のチャプレンに事情を聞きましたら、チャペルの学生団体の発案でツリーに七夕の願いのようなものを付けることになったらしいのです。

 私は、その時はそれはとても変なことだからやめた方が良いとその大学のチャプレンに言ったのですが、その時はただ、とても変だとだけ思ってよく理由がわからなかったのです。あとで冷静になって考えてみますと、クリスマスのシーズンは、自分の願いを訴えることでなく、逆に自分を空しくして、先ず神様の呼びかけられ声を聞く、そして神様の呼ぴかけに答えることがテーマとされているシーズンなのですね。そのことと、学生達の多分みんなたわいない、無邪気な願いだったのでしょうけど、自分の願いをかなえてもらうという気持ちはやはり、心の向かう方向が180度違うことなんだと私の心の中の無意識が、私にその願い事のいっぱいついたツリーを見て気持ち悪いと思わせたのではないかと思いました。クリスマスに飾られる天使がラヅパを吹いている像や、ベルは目覚めよと私達に呼びかける預言者の声のシンボルです。預言者の叫ぶ声に、先ず耳を傾けるのが降臨節の始まりです。この特祷の中にある「罪を捨てる恵み」という言い方が、とても良いですね。恵みがなければ、私達自身の力だけでは、罪を捨てるということは出来ないのです。また、「イエス・キリストの来臨を喜びを持って迎えることが出来ますように」と祈ります。喜びをもつて迎えるどころか、イエスキリストが来ても、追い返してしまったり、今そこにおられても気が付かない、見えないということがありませんかと私達の心が問われています。あの「靴屋のマルチン」の童話が思い出されます。

 旧約聖書は、イザヤ書の希望の預言です。イスラエルの誰もが、国の破滅等予想し得ない時に、イスラエルの国が不信仰の故に滅ぼされると預言をしました。イスラエルが本当に減ぴてからは、誰もが皆回復などあり得ないと絶望しているさなかにあつて、希望の予言を語り続けました。そして、人々は破減の予言も聞きませんでしたし、また希望の予言もやはり聞かなかったのです。

 今日、選ばれているテキストの中でイザヤが語る神の国のイメージは驚くべきものです。『狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぽすこともない。』私は神学生の頃、初めてこのところを読んだ時の感動を忘れることが出来ません。

 使徒書は、パウロのロマ書です。異邦人の使徒とされたパウロが自分の使命を深く振り返っているところです。私達が聖書を読んで慰められ、励まされるように、パウロもまた聖書(旧約)の言葉に「忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができた」のであります「希望の源である神」という言葉が素晴らしいと思いいます。パウロもまた、イザヤと同じように現実には希望など見えない中にあって、神様から希望を頂いて生き、働いた男でした。

 そして、福音書では、バプテスマのヨハネのことが語られています。ある説教者が、バプテスマのヨハネとイエスの関係を落語の前座と真打ちの関係にたとえていました。前座だけ聞いていると、たいてい「おー、なかなかうまいじゃないか」と思う。しかし、真打ちが出てきて、その芸を見てしまうとやっぱり前座は前座だと思う。また、もし前座を聞いていなくて、真打ちだけを聞いても、真打ちがどれほどうまいかもやはりわからないだろうというのです。バプテスマのヨハネのことは、イエスと比べてみて初めてその意味がわかる。また、イエスのこともバプテスマのヨハネと比較してはじめて、その意味がよくわかるというのです。それはやはりそうだと思います。

 今日の福音書に描かれているまことに厳しいバプテスマのヨハネの姿。妥協無く厳しく人々に悔い改めをせまるヨハネ。そして人々にそう迫るヨハネ自身、自分にも厳しい人であったに違いありません。清廉潔白な生き方を貫き通したヨハネ。ファリサイ派やサドカイ派の人々さえ、このヨハネを尊敬して洗礼を望む人々の列に加わったとマタイは伝えます。

 しかし、イエス様の生き方、また弟子達に語られた語り方はヨハネのものとは全く違っていました。

 人々に嫌われていたザアカイに声をかけその家に行き、泊まられたイエス様。放蕩し、傷ついてボロボロになった息子に自分から駆け寄っていく父の姿を、これこそが神の姿だと語られたイエス様。人々に、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税入や罪人の仲間だ』と言われたイエス様そして、ファリサイ派の人たちとはあんなに鋭<激しい議論をなさったのに、ポンティオ・ピラトの前、十字架の上では何の言い訳も釈明も議論もなさらなかったイエス様。十字架の上でご自身もボロボロに苦しまれながら、なお罪人を許されたイエス様。そういう立派でも、潔癖でも、強くもなかつたイエス様をヨハネは、「わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。」と言い切ったのでした。何故ヨハネがそう言わざるを得なかったのかということが降臨節の一番深い黙想のテーマであります。アーメン

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