『星を動かす少女』

2004年キャンドルサービス説教から

司祭 ぺテロ 浜屋憲夫

 今年のクリスマスのご案内のパンフレツトに、一つの詩を載せました。その詩についてお話をしたいと思っています。

 アドヴエントの頃になると、クリスマスの準備のあわただしさの中で、本屋さんに行ったり、図書館に行ったり、自分の書斎の本棚を見直したりして、クリスマス関係の本を探して読むのが私の毎年のことになっています。勿論、牧師としてクリスマスの為のお話をしたり、原稿を書いたりするための準備の仕事なのですが、それは只の仕事ではなく、忙しい中で少しホッと出来る私自身のための小さな楽しみでもあります。そんな風にしていろんな本を捜す中で、私の心に響いてくる、言葉、物語、祈り、詩等に出会います。今年のクリスマスの案内のパンフレットに載せました詩も、そのようにアドヴェントを過ごす中で出会ったものの一つです。

 パンフレットで既に読んで頂いていると思うのですが、「星を動かす少女」という題の詩です。書かれたのは松田明三郎(あけみろう)さんという旧約聖書がご専門の先生だということです。そんなに長いものではないので全文引用してみましよう。

 

  「星を動かす少女」

クリスマスの
   ページェントで
   日曜学校の上級生達は
   三人の博士や
   牧羊者の群れや
   マリアなど
   それぞれ
   人の目につく役を
   ふりあてられたが、
   一人の少女は
   誰もみていない舞台の
   背後にかくれて
   星を動かす役が当った。

 「お母さん
   私は今夜星を動かすの。
  
見ていて頂戴ね。ーーー」

  その夜
   堂に満ちた会衆は
   ベツレヘムの星を
   動かしたのが
   誰であるか
   気付かなかったけれど、
   彼女の母だけは
   知っていた。
   そこに
   少女の喜びがあつた。

 私は、牧師として、また幼稚園の園長として、クリスマス・ぺ-ジェントは何回もしているのですが、ページェソトの役割を決めるのには毎年苦労したものでした。やりたい役に当った子どもの嬉しさも、あまりやりたくない役が回ってきた子どもの不満(悲しみでさえあった。) も毎年見なければならない、嬉しい、またつらいことでした。幼稚園等では、お母さんたちまで、「うちの子は今年はどんな役に当るのかしら」とか、「今年のマリア様は誰がなるのかしら」とか、クリスマスのずっと前から大騒ぎをするのでした。

 ある年の幼稚園のクリスマスでは、羊の役に当たった子供達の練習する姿が、あまりに可愛いので、声をあげて笑ったら、思いもかけず指導している先生に怒られてしまいました。「園長先生、笑わないで下さい。この子達は真剣にやっていますから、園長先生が笑うとうまく出来ていないから笑われたと思うのです。」と言われたのです。私は、一所懸命に「メーメー」といって羊さんを演じている子供達があまりに可愛くて笑ったのですが、子供達は自分の演技を失敗したり、変だったりするから笑われると思うと先生は言うのですね。それほど子供達は、真剣にやっているのですね。

 そういう経験を私はしていますから、この「星を動かした少女」の詩には、私は殊更に感動したのでした。何回読んでも胸にジーンとくるのです。詩には語られていませんが、この少女が初めて自分がこのあまり誰もやりたくない、目立たない役に当ったと知った時、きっと残念な気持ちが心にわいたと思うのです。残念という以上のものがあったかもしれません。悲しくなったかもしれません。

 しかし、この少女はお家に帰ってお母さんに自分の当てられた役割を報告する時にはその残念な、悲しい心のままでなく、そこから立ち上がり前を向く心になっていました。そしてお母さんにきっぱりと言うことが出来ました。

 「お母さん、私は今夜星を動かすの。見ていて頂戴ね。」

「目立たない役だけど一所懸命やろう。誰も私がこの役をやっているのを気付かないかもしれないけど、お母さんだけは見ていてくれる。それで十分。一所懸命やろう。」そんな風に、少女は小さな心の中で自分自身に語りかけたことでしょう。

 そして、「彼女の母だけは知っていた。そこに少女の喜びがあった。」と詩人は書きました。このところが、何回読んでもジーンときます。そこに少女の喜びがありましたし、少女の喜びだけでなく、お母さんの喜びもあったのでしょう。この少女とお母さんの喜びは目立つ役を頂いた子ども達の大喜とは違って、静かなつつましいものだったと思います。しかし、この少女がお母さんと共にした静かな小さな喜びの方が、目立つお役を貰った子供達の大喜びよりも、ずっとずっと深く、清いもの、そして本当のクリマスの心であったと思うのです。

 それは、2000年前のマリア様、ヨセフ様、そしてイエス様の姿は、聖劇で目立つお役を貰って大喜びをしている子供たちよりも、この星を動かす少女の姿にずっとずっと似ているからです。少女が自分のお役が、星を動かす役であることを知った時に初めは動揺しましたが、与えられたお役を一所懸命やろうと決心してお母さんに、「見ていて」といったように、2000年前にマリア様が天使から自分が救い主を生むのだと告げられたとき、初めはどういうことなのかと恐れたのでしたが、最後には「お言葉どおり、この身に成りますように。」と言ったのでした。それがマリアでした。イエス様の母、マリアに選ばれることは、決して大騒ぎの大喜びのことではなかったのでした。

 そして、その少女が、いじらしい決心をして星を動かしていたのを彼女のお母さん以外の殆どの人が知らなかったように、2000年前のベツレヘムの空に輝いて博士達を導いたあの星を動かしていたのが、馬小屋にしか泊まることが出来なかったつつましいあの若い夫婦と一人の赤ちゃんであったことを知る人は殆どありませんでした。それどころか、その星に目を止める人さえ少なかったのでしょう。クリスマスの物語は、勿論救い主がどのように世に来られたかを伝える物語であるのですが、また一方では、(ヨハネの福音書冒頭にあるように、)どのように人が救い主を拒んだのか、また喜ぶのではなく、恐れたのかを語る物語でもあるのですね。

 確か、カルヴァンだったと思うのですが、人が救いということを理解するためには、先ず人間の「悲惨」、人間は悲惨な状況を生きているのだということを理解しなければならないと言っていたように記憶しています。神を拒否するほどに人が悲惨だからこそ、だからこそ救い主が来られなければならなかったと福音書は語るのですね。

 しかし、福音書はそう語りながらも、少数の心清き人たちは救い主に会う事が出来たとハッキリ記します。そしてその人たちには、深い心の喜びが与えられたのでした。

 ルカよる福音書には、「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」とありますし、マタイによる福音書には、「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリブと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」とあります。

 星を動かす少女とそのお母さんの喜びを殆どの人が知らなかったように、ベツレヘムの町の片隅の片隅に誰にも知られずに、このような喜びがあったのでした。そして、その小さな喜びは、それで消えることなく、心の清い入たちの間で、伝えられ、また伝えられ、また伝えられて、私たちにまで伝えられたのです。その伝え続けられてきたことを不思議とも思いますし、また伝えられるべきことは、どんなに隠されても伝わるものだと驚きをもって思います。

 このクリスマス、この少女のように、また乙女マリアのように、神様から与えられたお役を、どんなに自分に思いがけないものでも、どんなに目立たないものでも引き受けていくことができるように、私たちの心を清めて下さいと祈りたいのです。 アーメン

                              

もどる