『聖霊降臨後第三主日説教より(200565)  医者がいるのは・…』

司祭ペテロ浜屋憲夫

 福音書からお話致します。本文は「イエスは、そこをたち、通りがかりにマタイという人が収税所に座っているのを見かけて『私に従いなさいと言われた』」という言葉で始まっています。マタイという人が、イエス様に召された場面です。

 マタイの福音書の流れの中では、「そこをたち」というのは、イエス様が山上の説教を語り終えられた後、山からおりて弟子たちと共にガリラヤ地方のあちこちを歩き回って、病気の人を癒してあげたり、不思議な業をしたりされるのですが、そういう力ある業の一つに中風の人を癒された話が記されていまして、このマタイの召命の話はその話の後に置かれています。「そこをたち」というのは、そういうわけで、「中風の人を治してあげてから」という意味になります。

 先週のお話で、私は「このお話しは本当にイエス様らしい話であると思う」ということを申し上げましたが、今日のお話もまた誠にイエス様らしい、また新約聖書らしいお話です。

 山上の説教の中で、目が覚めるように鋭い言葉を語られたイエス様、そして語り終えられたあと、あちこち歩き回り、御自分の尋常でない力、癒しの力業を人々に見せられたイエス様が、こんどなさったのは、自分はどんな人を仲間であると思っているか具体的行動で示すということだったのです。

 そして、この仲間の選び方がまたその当時の人々の度肝を抜くようなものでありました。イエス様が、ご自分の弟予に選ばれたのは、徴税人でした。徴税人という言葉で、私たちにすぐに思い出されるのは、徴税人の頭「ザアカイ」ですね。ご承知の通り、ザアカイさんは、徴税人であるが故に人々に嫌われていました。

 何故徴税人であるが故に嫌われるのかというと、この徴税人が集めていた税金は、ユダヤの税金ではなく、当時ユダヤの国を占領統治していたローマ帝国に支私われる税金だったからです。ローマ帝国は、帝国に支払われる税金の徴収の仕事を自分たちの手では行わず、被支配下の国民の中の同胞にやらせたのですね。税金を取られることに関わる嫌悪感や憎しみが直接にローマに向かわないように、またユダヤ人同志が分裂して、憎み合うように巧妙に作られた徴税システムだったようなのです。

 それで、ユダヤ人は、徴税人をローマの手先、裏切り者、穢れた者というように嫌っていたようなのです。イエス様が自分の弟子に選ばれたのは、そんな人であったのです。福音書は正確に、「イエスがその家で食事をしておられた時」と書いています。その人と食事をするというのは、日本にも「一宿一飯の恩義」という言葉があるように本当にその人と仲間であるということであります。

 ところが、それを見た人々が言った言葉は、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」という言葉であったと書かれています。イエス様の行為が如何に当時の人々の常識から離れ、人々の気持ちを逆撫でするものであったかがわかります。

 当時の人達にとつては、このような徴税人や罪人から離れるのが、正しい宗教的行為であったのに、イエス様にとっては、このような人の仲間になることこそ神さまのみ心にかなうことだったのです。

 イエスがその場面で語られた書葉は、こういうものでした。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 これは、本当にすごい言葉です。本当に正しい言葉です。そして、イエス様がすごいのは、このような場面の中で、この正しい言葉を、正しいままに真っ直ぐに言われ、また行動されたことであります。

 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」本当にそうであります。人間はどうか知らない、しかし神さまはそう思っていらっしゃるとイエス様は、何の躊躇もなく言われる。それがすごいですね。

 人間の目から見れば、正しい人が良くて、罪人は悪いに決まっています。しかし、神さまから見れば、その罪人こそが、本当に心に掛けなければならない人助けなければならない人なのであります。そういえば、人の親でさえ、できの悪い子ほど可愛いと言います。

 また、正しいことをして自慢しないのは本当に難しいことですが、その自慢が人を神さまから引き離してしまうことも本当にあることであります。このあたりの機微が、本当に難しいのです。そして、このあたりを納得することこそ新約の信仰の本当に中心だと思います。

 親鸞上人の語録である「歎異抄」という小さな本の中に、『善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人於や』という言葉があり、「悪人正機の説」として知られています。今日の福音書の「イエスのわたしが来たのは、正しい人を招くためではなく。罪人を招くためで、ある。」とそっくりな言葉ですね。

 歎異抄の本文は、こうなっています、『善人ですら往生をとげるのです。まして悪人はなおさらのことでしょう。ところが世間の人は、悪人ですら往生するのだから、まして善人はなおさらだ、といっています。この考え方は、一応もっともなようですが、阿弥陀仏の、本願他力のおこころには背いています。そのわけは、自分の力で善行功徳を積んで往生しようと思っている善人は、阿弥陀如来におまかせをするという気持ちのない人ですから、阿弥陀様のおこころにかないません。けれども、そういう人も、わが身の善をたのむ自力の心を改めて、阿弥陀仏の本願他力におまかせするならば、本願力の御はからいにより、真実の悟りの境界である浄土に往生させていただくことができます。あらゆる煩悩を身にそなえている私どもは、どんな修行によっても、生死の迷いから離れることができないのです。そのような者を憐れんで、たすけようという願いをおこされたのが阿弥陀仏ですから、阿弥陀様にお任せするのが浄土往生の正しい道であって、自力の善をあてにする善人よりも、本願をたのみ、まかせきっている悪人こそがご本願の目当ての人になるのです。それゆえ、善人ですら往生をとげるのです。まして悪人はなおさらのことでしょうと、仰せられたことでした。』

 本当に、イエス様の論理と同じですね。しかし、これが本当に正しいのに、現実では、「ところが世間の人は、悪人ですら往生するのだから、まして善人はなおさらだ、といつています。」となるところが本当に人間の悲しく、難しいところです。まさしく、これが罪の中にある人間の姿であり、業の中にある人間の姿です。難しいのです。

 そして、この『医者が必要なのは、病人である』、『善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人於や』という思想には、もう一つのタイプの困難さがあります。第一の困難は、もちろん今申し上げましたように、この逆説が認めにくいという困難です。

 そして、第二の困難は、「そうか、悪人こそすくわれるのか、そうか、それなら何をしても良いのか」といって罪のままにとどまり、したい放題しても良いのかと誤解される困難です。これも、難しい間題です。

 親鸞上人が言われたのかどうか私にはよくわからないのですが、浄土真宗には、「本願誇り」という言葉があるそうです。「本願」という言葉は、キリスト教的には「福音」と考えてかまわないと思います。「福音誇り」です。どんな人でも救われるのなら、私たちは何をしても良いのかという論理ですね。聖パウロ.も、ロマ書の中で同じ問題を熱心に論じています。

 これは、論理的に表現される言葉の論理の部分だけをとって建てられた、救いの体験を伴わない間違いであり、屁理屈ですね。本当にすくわれだ人は、感謝の体験の中でそのような「本願誇り」を出来ない人になってしまうのではないかと私は思っています。

 救われた人は、全く過ちをしない人になるわけではありませんが、過ちをしてもそれにすぐ気がついたり、また正しいところに帰って来ることが出来たりする人ではないかと思っています。やはり、一旦本当に目が覚めた人には、「本願誇り」は、出来ないように思われます。

 医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。・・・・・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 本当に正しい言葉です。そしてこの正しい言葉を正しく行えない私たちの心を深く鋭くついてくる言葉でもあると思います。

                                                                        

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