『聖霊降臨後第七主日 説教  重荷を降ろした話』

司祭 ペテロ 浜屋憲夫

この二三回、福音書のテキストはとても厳しく、激しく、鋭いイエス様の書葉が続きました。「私が来たのは、地上に平和をもたらすためではなく、剣をもたらすためだ」とか、「魂も身体も地獄で滅ぼすことのできる方を畏れなさい」とか、誠に厳しく、激しく、鋭い言葉が毎回続き、私のお話もそれに伴って相当きつい内容の話が続いたかと思いますが、今日の福音書は、がらりと変わって、とても優しい、慰めに満ちた言葉が語られます。

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。

そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである

殊にこの「休ませてあげよう」という言葉が良いですね。本当は、イエス様にあって、この激しく厳しく鋭い言葉と、優しく慰めに満ちた言葉とは、表裏一体をなすものなのですが、やはり今日の福音書のような優しい言葉を聞くとホッと致します。  

 というわけで、今日はこのホッとした言葉を聞きながら、あまり難しいマタイの福音書の釈義から離れて、福音書に書かれてある「休ませてあげよう。」、「安らぎを得られる」、「私のくびきは、軽い」というような言葉について自由に考えてみたいと思っています。福音書の言葉の中でわかりにくい言葉は、「軛(くびき)」という言葉くらいでしょうか。これは、牛や馬の首につけて、馬車とかを引っ張るようにするものですね。イエス様の教えは、人々に沢山の律法を重荷のように引かせるものではないというのですね。

 私は、今平安女学院で高校生に聖書を教えているのですが、今「マルタとマリアの話」を教えています。何回か授業をした後に、その箇所について感想を書かせるのですが、とても良い感想がいくつも出てきて、感動します。

 その中の一つに、「マルタはイエス様に声を掛けられて、ホッとしたのだと思う。」という感想がありまして、とても良い感想だと思ったのでした。今日の福音書の言葉で言えば、マルタは、イエス様に「マルタ、マルタ」と声を掛けられて、重荷を降ろすことができた。やすらぐことができたというのですね。

 マルタとマリアの話は、ご承知の通り、イエス様を自宅に迎えたマルタとマリアの姉妹の物語です。イエス様をお迎えして接待に忙しいマルタと、イエス様の言葉に聞き入るだけでマルタと一緒に接待の仕事をしようとしないマリア。マルタはそのマリアが手伝わないのに、いらいらして、イエス様に文句を言います。 (マリアに直接は言わないのです。)「マリアに注意して下さい」。しかし、イエス様は、マリアに注意するのではなく、マルタに言葉を返される。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』

 この短い物語は、いろんな読み方が出来る物語です、結構マルタタイプとマリアタイプの比較論みたいな読み方をされることが多いのではないかと思うのですが、先ほど紹介しました生徒の読み方をしますと、これは、マルタが本当にイエス様から「慰めを得た物語」として読むことが出来ます。そして、この読み方にはとても深いものがあると思います。

 キリキリ、キリキリ、おもてなしをしなければと思い悩み、心を乱していたマルタが、イエス様に、「マルタ、マルタ」と直接声を掛けられ、何が一番大切なのか、教えられました。そして、そのことによって、マルタは本当に「ホッとした。」軽くなったのですね。

 平安女学院の生徒に、もう一つの話を教えました。あの「ザアカイさん」の話です、これが、四月に一番始めに教えた話なのですが、生徒達の何人かは、廊下で私と会うと「ザアカイさん、ザアカイさん」というのです。何回も何回もしつこく教えたからでしょうね。

 このザアカイさんの話も、やはり「重荷を降ろした話」として読めますね。「取税人の頭、ローマの手先、裏切り者」という人々のレッテルの中で突っ張って生きていたザアカイさんが、「ザアカイ、今晩はお前の家に泊まる」というイエス様の声を聞きました。嬉しかった。本当に嬉しかった。そして、この瞬間からザアカイさんの重荷は軽くなったのだと思います。

 何が、人世の重荷で、何がその人の重荷を軽くするのかということは、そんなに簡単に言い切れるもの、ではないと思うのですが、この二つのお話に学ぶことが出来るのは、マルタもザアカイさんも自分の問題を、自分の考えの中で処理したり、また誰かを責めたりせずに、直接イエス様のところに持っていったことによって本当の慰めを得ることが出来たということではないかと思っています。

 マルタがマリアに直接文句を言わずにイエス様にマリアを注意して下さいといったのは、ある意味でずるいような所が感じられますが、やはりそれが良かったのですね。マルタは、そこで自分自身を責めたり、マリアを責めたりせずに、直接イエス様に問題を持っていきました。そして、イエス様と出会うことが出来た。

 ザアカイも、悩んでいたのだと思います。何とかその悩みを解決したい。自分の頭の中で、自分の仕事の解釈をする。意味づけをする。他人のせいにする。社会のせいにする。お金で納得する。しかし、ザアカイはイエス様のところに行こうと思いました。それが良かった。今日の福音書の、始めに

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。

と書かれてあります。自分の知恵や知識や経験で解決できる悩みや苦しみもありますが、しかし、自分の知恵や知識や経験があるがゆえに、返ってありのままの苦しみや重荷を大きくしている場合もあるのですね。

  マルタの場合ではマルタが苦しんでいたのは「マリアが一緒に働いてくれない」という「自分の考え」の故でした。別にマリアが手伝わなくてもお仕事の量だけでいえばそんなに大騒ぎするほどのことではなかった。マルタの「頭の中の考え」がマルタ自身を苦しめていました。その考えが、イエス様と直接話す中で消えていったのです、本当に自分に正直になれた。

 ザアカイにも同じことが言えますね。「人が自分のことを、悪くいっている」というザアカイさんの思いが、ザアカイさんの現実の苦しい立場以上にザアカイさんを苦しめていたのだと思いますその中でどんどん自分自身を苦しめるようにザアカイさんは行動していったのではないか。イエス様と直接出会うことによって、ザアカイさんはやはり、自分自身に素直になれたのではないか。だから、その時点から自分の生き方を変えることが出来るようになった。人の目によって生きるのではなく、神さまの目の前で生きるようになった。

 私自身が、キリスト教に入るキッカケになったのは、自分自身の考えの堂々めぐりから抜け出したいという思いであったような気がします何か、悩む、その悩みについて考えるのですが、いつのまにか堂々巡りになってしまう。その堂々巡りを、「神さま」によって切断して欲しかったという記憶があります。

 マルタもザアカイさんも、その「切断」をイエス様によって与えられたのではないかと思います。だから軽くなれた。自分自身の知恵や知識で造りあげていた重荷を降ろすことが降ろすことが出来たのではないかと思うのです。  アーメン

                                                                  

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