『聖霊降臨後第九主日 説教・・・・・・・・・毒麦のたとえ』

司祭 ペテロ 浜屋憲夫

本日の福音書は、「毒麦のたとえ」と呼ばれているお話です。物語は『イエスは、別のたとえを持も出して言われた、「天の国は次のようにたとえられる。」という言葉で始まります。』

 マタイは《天の国》と言いますが、ルカなどは《神の国》といいます。神さまの御心の行われる世界のことです。イエス様の宣教、伝道の出発点の言葉、《神の国は近づいた。》という言葉でした。イエス様が働かれたのも、また弟子達がそれを期待してイエスに従ったのも、この《神の国、天の国》の実現のためであり、また現在私たちが教会に集まっているのも究極は、この《神の国》の実現のためであります。その天の国は「次のようにたとえられる。」とおっしゃるのです。

 何にたとえられるかというと、《良い麦と毒麦の混じった畑で収穫をするようなものだと》というのです。これは、『神の国』が直接どのようなところなのかということを教える譬えではなく、神の国の実現はどのようになされていくのかという譬えです。神の国の実現の仕方です。神の国は、良い麦と毒麦が混じったような畑から実現するのだとイエス様はおっしゃる。実際にイエス様の時代に蒔かれていた麦畑には毒麦が生えたのでしよう。

 これは、いろんな意味で面白いたとえです。この話を裏返して読みますと、神の国は、良い麦ばかりの畑から実現されるのではないというのです。神の国の実現過程に必ず毒麦も混在するようになるというのです。

そう語られるイエス様に弟子達がこう聞いたと書いてあります。

 僕たちが主人のところに来で言った。『だんなさま、畑には、良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』

 これは当然の疑間ですね。それに対して主人は、こう答えます『敵の仕業だ』これが面白いですね。神さまは良い麦の種をまいた。良い麦の種しか蒔かなかったのに、敵が来て、(これは悪魔と説明してあります。)毒麦の種を蒔くのだというのです。

 これは一見「何??」と思われる答えですが、私たちの生きている周りを見回してみると、これは納得をせざるを得ません。神さまの言葉は既に十分に語られているのに、世界はまだまだ、神の国の実現に程遠い状況にあります。先週のトップニュースは、ロンドンのイスラム教徒による自爆テロ事件でしたし、拉致問題も全然解決に向けて進展しません。私たちの住む世界は、良い麦どころか、ほとんど毒麦だらけであるように見えます。神さまが蒔かれた良い麦を見つける方が困難な位、毒麦がはびこっている世界に私たちが住んでいる。否応無しに、毒麦について考えざるを得ないのであります。

 そして、この毒麦について考える時に、もう一つとても大切なことがあると思います。それは、今世界が良い麦ばかりでないという話をしましたが、毒麦は教会の中にもある、そして、クリスチャンの心の中にもあるということを、ハッキリと私たちは覚えなければならないということです。

 宗教改革者ルターが、この毒麦のたとえについて、こう言っているそうです。「神が教会を建てられると、悪魔はチャペルを建てる。」悪魔は、神の言葉の語られる所、正義が語られる所、愛が語られるところが大好きなのです。悪魔は、いかにも『悪い』と誰もが思うようなところには、あまりいないようなのです。悪魔が好きで、元気が出るのは、神の言葉が語られるような場所、神の言葉を聞くような心なのですね。毒麦もやはりそうなのでしょうね。毒麦も、本当の麦が育つような畑でないと育つことができないのでしょう。神の言葉が語られるところ、必ず毒麦もあるのです。

 そうか、良い麦と毒麦は常に混在しているわけか。なるほど、そしたら、どうしたらよいのかということになります。福音書は、こう続きます。

僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と聞くのです。当然の質問ですね。そこに毒麦があるのなら抜かなきゃいけないに決まっています。しかし、ここが面白いところで、主人はこう返事するのです。

 『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。』

 ここが、本日の福音書の一番肝心なところです。主人は、抜いてはいけないというのです、今は、それが良い麦か、悪い麦か判断出来ない。

 それが、完全に育ちきって実をつけて本当に良い麦か悪い麦か区別出来るようになるまで、両方とも育つままにしておきなさいというのが答えなのです。このあたりの説明にとても良い文章を見つけましたから紹介したいと思います。

 先ず、たとえそのものについて、「パレスティナではしばしば麦の中に混じって毒麦も一緒に育ったので、それらは初めのうちよく似ていて見分け難く,成長すると互いに根が絡んで、うまく毒麦だけ引き抜くのは難しかった。そこで収穫の直前になってまず毒麦だけ抜き集めたのである。イエスはこのような農民の実際的な知恵を借りて、人が善悪を性急に識別し、分離することの危険を教えた。」と説明されています。見えている部分で毒麦と解っても、根が絡んでいてそれを引き抜くと横の良い麦も抜けることがあるのですね。

 そしで、たとえが語られた理由その@として、それは、この世に悪が現に存在しているにもかかわらず、神の国はそれに妨害されずに確実に到来しつつあるという信頼に裏付けられての発言であるとあります。先ほども私の言葉で言いましたが、見た目は毒麦ばかりにみえても良い麦もちゃんと育っているというのです。

 そして、たとえが語られた理由そのAとして、人は神の裁きを代行し得ないという考え方があるとおっしゃいます。(一コリ四・五)。これは、イエス様当時の宗教界の状況を反映しています。そして、また何時の時代にもある人間の考え方の傾向に対する警告でもあります。たとえばファリサイ派(分離主義者!)や熱心党の独善性やクムラン宗団の閉鎖性に対する批判です。またこれはイエスがヨハネ宗団を去られた理由でもあったのではないかとあります。この人たちは、皆正しい人たちでしたが、皆『裁く人たち』であったのです。イエス様は、その立場を取られなかった。

 そして、このたとえが語られた理由そのBとしてマタイの頭にあったのは、マタイ自身の教会の状況だったとおっしゃっています。正しいキリスト者がいるはずの教会(マタイの教会)の中になぜ、悪い者がいるのか?そのような人にどう対処するかという問題意識がマタイの中にあったようなのです。

 今日の福音書の解釈としては、大体以上のような点を押さえれば福音書が伝えたいことを理解出来ると思われますが、私は、この中の「毒麦をそのままにしておきなさい。」という教えこそ、ある意味で「信仰」というものの、極意のようなものではないかという気がしています。

 コリント第一45節に「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。」というパウロの言葉があります。

 また、同じパウロの言葉であの有名な「復讐するは我にあり」という言葉もあります。新共同訳ですと、「愛する人たち、自分で復警せず、神の怒りに任せなさい。『復警はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。

 信仰とは、まだ答えのでていない、宙ぶらりんの状態に耐えて、待ち続けることのように思われてしょうがありません。いくら正義、理想を唱えても、現実の人間はなかなか良い麦ばかりではありません。それを無理して、良い麦ばかりにしようとして、結果、裁き合い、仲間割れ、ひどくなるとそれまでの仲聞を粛正してしまうところまでいってしまう『待つことの出来ない』人間的理想主義の悲惨な末路は、歴史にその例を探すのに何の苦労もありません。結果が見えても見えなくても、選んだこの道を諦めず、歩き続ける。自分の手で、出来るだけをして、それ以上は与えられるまで待つ。これが、本当に大切なのですが、どうしても、またしても、またしても、結果に焦るのです。ペンディングの状態が苦しい。私たちの多くは、今、申し上げたように、人間的判断で悪い部分を切り捨ててしまうか、逆にすべてを諦めて、最初の理想も、夢も皆、放り投げてしまうか、どちらかになってしまいがちです。

 私が若いころ読んだ山本七平という方の本の中で、聖書の中の『待つ』という言葉は、日本人には実にわかりにくい言葉だとおっしゃっていたのを記憶しています、これは、ユダヤ人にとっては、そのスケールが何百年、何千年という単位の事柄だというのです、せっかちな日本人に「待つ」、「祈りの中で待つ」と言っても、「何分何時間、何日、何ヶ月」というくらいのスケールでしか、「待つ」ということをイメージ出来ない。そのようなせっかちさの中では、なかなか信仰的な「待つ」、「裁くな」ということはわかりにくいとおっしゃっていたように記憶しています。

 信仰ということは、自分が頭で考えた理想と現実の世界や他の人が違うことに怒り、裁き、変革していこうという姿勢ではなく自分や世界の矛盾、未解決、未熟さ、未到達をそのまま受け入れ、その答えがまだ出ない苦しさに耐え続けながら、希望を捨てることなく待ち続けること、選んだ(選ばされた)この道を歩み続けることだと私には思われてしかたがないのです。アーメン

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