聖霊降臨後第十三主日 奨励「人と人との間の境界線」

聖職候補生アンナ三木メイ

今日の聖書日課のテーマは、一言で言いますと、人間と人間の間にある「境界線」だと言っていいのではないかと思います。今日は聖書のお話しをする前に、沢知恵さんというクリスチャンのシンガー・ソングライターの方の『The Line』(つまり境界線という意味)という歌の歌詞をご紹介したいと思います。この方は、日本人のお父さんと韓国人のお母さんの間に生まれて(しかもご両親とも牧師なのですが)、日本と韓国とアメリカで暮らしたことがあるそうで、三カ国語が話せるそうです。それで、ご紹介したい歌の歌詞はもともと英語なのですが、日本語に直訳してお伝します。

「愛と憎しみの間にある境界線はどこにあるのでしょうか
北と南の境界線はどこにあるのでしようか
男と女の境界線はどこにあるのでしょうか
あなたとわたしの境界線はどこにあるのでしょうか
そこには目に見えない境界線があります
世界中のいたるところに、毎日の私たちの生活の中にそれはあります
そして、その境界線を越えていくのはあなたです
それはやってみようと思えばたやすいことです
だって、その境界線はあなただから
戦争と平和の境界線はどこにあるのでしょうか
大人と子供の境界線はどこにあるのでしょうか
黒人と白人の境界線はどこにあるのでしょうか
命と死の境界線はどこにあるのでしょうか
その境界線はわたしです、その境界線はあなたです
そこにはもう境界線はありません
もはや境界線はないのです」

聖書のお話に戻りたいと思います。今日の聖書日課を読んでみますと、そこにはユダヤ人と異邦人と呼ばれた人々との間にあった「境界線」に関する事柄が取り上げられております。イザヤ書には、主のもとに集ってきた異邦人が主なる神を愛し、契約を守るなら、わたしの祈りの家に受け入れるという主の言葉が記されております。つまり、神への信仰をもっているならば異邦人も神の救いにあずかれるのだ、境界線はないのだよ、ということです。ところが、このイザヤ書が記されたよりもずっと後のイエス様が生きておられた時代には、神様が救いの契約をなさったのはイスラエルの民だけなんだ、神様を唯一の神として信仰してきたユダヤ人だけなんだというのが、当たり前の考え方としてあったようです。ユダヤ人以外の異邦人は、かつて他の神々を崇拝したことがあるという過去の歴史をもっていましたから、そういう意味でユダヤ人からは異邦人は「汚れた民」とみなされていたようです。つまりユダヤ人と異邦人の間には神様がはっきり「境界線」をおつけになっていて、異邦人は神の救いにあずかることはできないのだと考えられていたわけです。今日の聖書を読みますと、イエス様もそういう時代の中で、もともとはユダヤ人だけを対象として神の国を宣べ伝える活動をしておられたのではないかと思われます。

イエス様は、ガリラヤ地方を離れて、もっと北の方のシリア・フェニキアの地域の地中海沿岸の町ティルスとシドンの地方に行かれました。そこは異邦人の住む地域ですので、イエス様と弟子たちは伝道活動のためにきたのではなくて、法律学者たちとの激しい論争などに疲れて一時休養するためにそこを訪れたのではないかと考えられています。そこへやってきたのが異邦人であるカナンの女だったのです。彼女は、おそらく病気を癒す力をもつている救い主イエスのうわさを以前から聞いていたのでしょう。イエスに向かって「主よ、ダピデの子よ」、と呼びかけて自分の娘が病気でひどく苦しんでいるので助けてほしいと懇願したのです。

しかし、これに対するイエスさまの対応は実に冷たいものでした。この23節から26節にかけてのイエス様の言動というのは、私からすると理解しがたいほど冷ややかで、これが実際の出来事だとしたらショックだなあと思わざるをえません。まず、イエスさまは懇願するこの女に対して何も答えない。無視ですね。弟子たちも、うるさいから追っ払ってくださいと言っています。私ならもうこの時点で頭にきて、じゃあ頼まないわと言ってしまいそうです。

イエスさまはさらに、この女性の願いをしりぞけるような言葉を二回言われます。「私は、イスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない」つまり、あなたのような異邦人に福音を伝えたり、癒しを行うために神様から派遣されたのではない、ということです。神さまの救いにも「境界線」はあるよ、と言っているのです。この言葉はイエスさまの本音なのか、それともこの女性の信仰を試すためなのかは定かではありません。とにかく、まだこの女性はひきさがろうとせず近づいていきひれふして「主よ、どうかお助けください」と言います。そこにはもうイエスに拒絶されてもお願いするしか方法がないという非常にせっぱつまった状況が感じられます。

それでもイエス様は「子供たちのパンをとって子犬にやってはいけない」と答えます。この子供(ユダヤ人)と子犬(異邦人)では、その存在価値においてはっきりと境界線があります。異邦人はいわば犬呼ばわりされたんですね。それでもこの女性はイエスさまが言われたことに対して「主よ、ごもっともです」と認めた上で、「しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパンくずは、いただくのです」といってさらに助けを求めるんですね。かなり強引といえば強引ですが、相手が使ったたとえを用いてしっかり自分の思いを返していく機転と知恵がこの女性にはありますし、それよりも娘のためになんとしてでも助けてもらわなくてはという強い思いがこの女性を支えていたんだろうと想像できます。こういうふう強引と思われるような態度を見せられるとますます拒絶したくなるのが普通の人間の心理だと思います。

しかし、ここでイエス様は突然全<逆の方向にボンとひるがえって、この女性の信仰をほめて、そして願いをかなえてあげるのです。そこにあったはずの「境界線」をいとも簡単に飛び越えてしまって、異邦人を救ったんですね、どうしてなんでしようか。

私は、このカナンの女性が抱えていた絶望的ともいえる深い苦悩をイエスさまが感じ取れたということと、女性自身が救いを求める強い思いによってイエスさまを揺り動かしたという相互的な心の交流が起こつたからこそ、この「境界線」は突然無意味なものとして消えうせたのではないかと思います。

私たちは日常生活の中において、心の中でさまざまな境界線をひいてくらしています。人間はそれぞれ違いがあるのですから、それは当たり前のことでもあります。クリスチャンかノンクリスチャンかとか、昔からよく知っている人か知らない人かとか、年齢が若いかいやもう年寄りだとか、日本人か外国人とか、キリスト教かイスラム教かとか、たとえいろいろ違いがあっても、もし相互的な心の交流があって、互いに受け入れあうことができれば、そこには境界線はなくなります。でも、私たち人間の中になかなか消えない境界線があることも事実です。その目に見えない境堺線が、深刻な差別や抑圧やそして戦争を引き起こしてきたことも意識して考えなくてはならないかと思います。明日は815日、終戦60周年です。86日は原爆投下60周年を迎えました。

人間が心の中に強固な「境界線」を築きあげてしまうとどうなるかということを私たちは過去の歴史から、また現在起こっている紛争から学ばねばならないと思います。

戦争や原爆で命を失った人々とその家族がそのような絶望酌な苦しみを味わったのか、人間として本当に大切にするべきことは何だったのか、それをしっかりと想像し思い起こして考えていくプロセスの中で、私たちは「境界線」を消すことができるかもしれません。また違いをもつ世界の人々が互いに直接出会って交流するプロセスの中で、消すべき「境界線」を消すことができるのかもしれません。イエス様とカナンの女の出会いの物語は、そういう境界線を消せるという希望を私たちにあたえ、そしてそういう「境界線」を消して平和を実現するという使命があるということを、私たちに語り伝えているのではないかと思います。

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