降臨節第2主日教より

司祭 ペテロ浜屋憲夫

本日は降臨節の2番目の日曜日です。今日は、皆さんに一つの詩を紹介したいと思っています。こんな詩です。

  一度も高らかに
クリスマスを喜ぶ讃美歌を
歌ったことがない
一度も声を出して
クリスマスを祝うあいさつを
したことがない
一度もカードに
メリークリスマスと
書いたことがない

  だけど、だけど

  雪と風がたたく部屋で
心の中で歌い
自分自身にあいさつをし
まぶたのうらに書き
救いの御子の降誕を。
御神に感謝し喜び祝う

  水野源三さんという方は、小さいころにかかった病気によって、歌うことも、手を動かして文字をかくことも、メリークリスマスと挨拶することも出来ない方なのです。

 水野源三さんは、9才の時、赤痢の高熱で全身マヒの体となりました。言葉を話すことも出来ませんでした。12才のとき、初めて、聖書に触れ、13才で洗礼を受けクリスチャンになりました。お母さんの手助けで、五十音図を瞬(まばた)きで指定する方法で、多くの詩を作りました。

 水野源三さんの詩は、本当にまつすぐで素直な感謝と喜びにあふれています。またその言葉が、実に透明ですきとおった日本語なのですね、ある人は、水野さんの詩は、日本という異教国に、キリストの福音が真実に根付き、花を咲かせ、実を結んだ、顕著なしるしと言えるとまで言っていますが、私は決してオーバーな言葉ではないと思います。

私はこの詩が何となく、本当にクリスマスにふさわしいなあと思って皆さんに紹介しようと思って選んだのですが、選んでから、この詩がどうして私を感動させるのか、よく考えてみたのです。

そして、「ああ、そうだ」これだと思うことがありました。どういうことかといいますと、この詩の一番肝心な言葉は、10行目に書かれている《だけど、だけど》という書葉なんだと気がついたのですね。

 この詩の前半の9行では、自分が一度も(普通の人があたりまえに、するように)高らかにクリスマスを喜ぶ讃美歌を歌ったことがないこと、自分が一度も(普通の人があたりまえに、するように)一度も声を出して、クリスマスを祝うあいさつをしたことがないこと、自分が一度も(普通の人があたりまえに、するように)一度もカードにメリークリスマスと書いたことがないことが歌われます。《だけど、だけど》詩人は絶望したり、あきらめたりしないのですね。《だけど、だけど》詩人は、雲と風がたたく部屋で、心の中で歌い、自分自身にあいさつをし、まぶたのうらに書き、救いの御子の降誕を、御神に感謝し喜び祝います詩人のクリスマスの喜びは、歌えない、話せない、字が書けない、悲しみの中で、《だけど、だけど》、心の中で喜び、歌い、感謝をします。この喜び、この感謝は、《だけど、だけど》を通り越してきた、喜び、感謝です。その中に深く、悲しみや苦しみを包み込んだ喜び、感謝だと思います。

そして、私は、この《だけど、だけど》こそ、ある意味でクリスマスの心ではないかと思うのですね。クリスマスの聖歌は皆さん大好きですが、クリスマスの聖歌はみんな本当に綺麗なのだけど、なにかみんな、クリスマスの喜びを歌っているのに、どれもどこか物悲しいところがあると思われたことはないでしようか。

それは、やはり、この水野さんの詩のように、クリスマスの喜びというのは、先ず、人の世の悲しみ、苦しみ、人の心の弱さ、頼りなさというものがあるところに、《だけど、だけど》キリストが与えられる。希望など見えそうにないところに、《だけど、だけど》希望の光がともされる。ともされなければならない。

そういうのがクリスマスの心のように思うのです。《だけど、だけど》喜びがなければ、《だけど、だけど》慰めが与えられなければ、《だけど、だけど》感謝がなければいけないのですね。

 教会のイルミネーションが、夜本当に綺麗です。イースターの出来事は、朝の出来事でしたが、クリスマスは夜の出来事であったとハッキリ福音書は書いています。イルミネーションは本当に綺麗ですが、私は、クリスマスのイルミネーションは、その光を見るだけではなく、その背後の闇を味わうためにこそ灯されるように思えてならないのです。

人の世に、人の心に、本当に闇がある。それをごまかさずに見る。《だけど、だけど》その闇の中に光が与えられなければならないのですね。そのあたりのことを、ヨハネは彼の福音書の中に、ハヅキリと書いています。

《光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。》

 このところ、毎日のニュースを見聞きしていますと本当に暗い話ばかりですね。げっそりするニュースばかりです。しかし、よく考えてみますと、私達が教会の中で喜びを持ってお祝いする、クリスマスも、今私達が生きているのと同じような人間的現実の中で起きた出来事だったのです、そのことを決して忘れてはいけないと思うのですね。

 宿には、救い主を受け入れる部屋がありませんでしたし、救い主の誕生に駆けつけたのは、一番貧しい人達と外国人でした。また、恐ろしいことに、時の王へロデは、救い主の誕生の知らせに怯え、同じころに生まれた幼子を皆殺してしまったという話まで福音書には記されています。

 そのように、人々の無視、拒否の中、また殺意にまでさらされた幼子は、《だけど、だけど》不思議な運びの中で、不思議に守られて育ったのだというのが、私達の教会が伝えて来たイエスさまの誕生物語です。

 クリスマスまでの準傭の期間、光だけではなく、闇について黙想することも、やはり私達の大切な課題ではないかと思うのです」闇の中に、《だけど、だけど》光が与えられたという神秘を深く味わいたいと思うのです。

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