神の心、人間の心
〜命に燃える心は、いつまでも消えない〜
司祭 バルナバ 小林さとし
心の中で人は何を思い、心のありようはどのような変化をとげていくのか。実際他人には当事者の心はよく分からないし、自分自身であっても自分の心について考えてみれば深い淵のようでもある。
18歳の若さで預言者として召され、53歳でエジプトに行くことになり、そこで死ぬまでの35年間、紀元前6世紀の激動の時代を生きたエレミヤは人間の心の危うさを鋭く見抜いていた人物だった。
律法の言葉や神殿は書物や建物としては形あるものだ。それらを心の支えとし大事にすることによって心が養われることはある。しかし、その形だけを頼みとし、その限界性から目をそむければ、人は大きな過ちを犯してしまう。
エレミヤ書17・9「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。」
改革や国が危機に瀕する時、人の心は揺れ動き、時には今までとは正反対の心の動きをすることがある。人間の心は弱い。いつしかエレミヤは預言活動の中で、人間の心が主とつながっている時に心に命を宿すことを知る。その主とは「心を探り、そのはらわたを究める」(17・10a)ことが出来る神のことである。人間の心は何かとつながるのを欲しているように思える。ただそのつながる先が何かによって「荒地の裸の木」となるか「水のほとりに植えられた木」となるかが違ってくる。「主に信頼する人」は自分の心が正しくつながり、命を宿しているかをその実で知ることが出来る。主につながっている心は「実を結ぶことをやめない」(17・8c)との聖書の言葉は、私たちに希望と喜びを与えてくれる。
エレミヤの生涯は移り変わる人々の心の狭間で苦悩の連続だったに違いない。しかし、主に信頼することが出来、主の心を自分の心として生きることが出来たエレミヤは、主の目から見て豊かな実そのものだったに違いない。そしてそれは人間の心がいかに弱いかを知るエレミヤにとっては神の祝福を感じる時であつた。
エレミヤの心には命の炎が燃えていた。そして生きた心で語ることが出来た。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。」(31・16ab cd)。
そしてついにエレミヤは人々への救いと慰めに満ちた命に燃える神の心を告げる。「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(31・33bc)。
命に燃える心は実を結ぶことをやめない。
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