恐れが喜びに変わる時

司祭バルナバ 小林さとし

イザヤ書5112.bc「なぜ、あなたは恐れるのか。死ぬべき人、草にも等しい人の子を。」
 恐れは誰しも経験する。あの人おっかないなあとか、あの集団には入りたくないなとか、あの考え方にはついていけないなとか、小さいことから大きなことまで恐れは誰しも経験する。しかも恐れを恐れと感じないままに、誰かにやつあたりしたり、自分を責めたりする場合だってある。
    紀元前6世紀、もう随分昔のことだけれど、かつてイスラエルの人々は捕らわれの地バビロニアから解放され、エルサレムに帰ることになった時、帰還を拒む人々がいた。当然の事ながら、何世代も後になって、まだ一度も訪れたことの無い地に帰還するといわれても、そこには不安や恐れが生じるのはごく当たり前のことだ。一歩踏み出すことに躊躇するのは当然といえる。そのような状況の中で、帰還に反対する人々を恐れ、一歩踏み出せないでいた人々がいた。主はその人々に言われる。
12節「なぜ、あなたは恐れるのか」と。
 誰かに責められ、無視され、居場所が無くなり、尊厳を傷つけられることへの恐れの感情は人間が持つ根源的な防衛反応であろう。そのような恐れが現実となっている、あるいはこれからそうなるかもしれない危険を冒してまで一歩踏み出そうか、どうしようかと苦悩している人々に神は語られる。
16a節「わたしはあなたの口に私の言葉を入れ、私の手の陰であなたを覆う。」
 究極的なメツセージがここにはある。神はあなたたちの血と肉となってあなたたちを養うと主は言われている。つまり神の思いが私たちの血と肉となってこの世界に実現すると言っているのである。もはや神は対象ではなく、わたしの中に神が生き、神の内に私が生きるということである。
    復活するとは、神の思いが私たちの血と肉となるということに他ならない。私自身が復活するのではない。神の思いが私の血と肉となる、これが復活である。
    その時人は恐れを抱きふさぎ込んでいた状態から、神が共におられる喜びを全身であらわし、立って出かける人に生まれ変わる。
    神の思いを生きぬかれたイエスは言われた。「私の体を食べ私の血を飲みなさい」と。復活のイエスは私たちに語りかける。
   「さあ、立って出かけよう。わたしはあなたと共にいるよ」と。この言葉を今度は私達が誰かに語りかける時、私達はイエスの思いを生きているのである。

大津聖マリア教会 復活祭記念写真

 (小林司祭は彦根聖愛教会の勤務で大津は高地主教さんの司式でした)

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