閉じられた目、そして開かれた目
聖職候補生 ヤコブ 岩田光正
私事で恐縮ですが、私はすでに父と母を亡くしています。そして、今二人の娘がいます。そこで、時々次のような思いが脳裏を過ります。
上の娘の声が母の声に似てきた、時に母の声だと錯覚する、また下の娘のある仕草が父のそれと酷似している、これは父と母が天国から私の娘達の声や何気ない所作の中に現れ、瞬間、会いにきてくれたのだ、そのように感じられるのです。
さて、復活節第3主日は主の復活を信じることのできない、ある二人の弟子の前に現われたイエス様の、有名なエマオへのお話です。エルサレムからエマオという村に向かう二人の弟子たちの心境はどのようなものだったでしょうか。イエス様をローマからイスラエルを解放してくれる「行いにも言葉にも力のある預言者」と信じていただけに、そのやり場のない虚しさは想像に余りあります。そのような気持ちを紛らわそうと二人は道中ずっと話し込んでいました。そこにイエス様が現れ、二人に近づき、一緒に歩き始められたのです。その日はちょうど十字架から三日目、婦人たちや他の弟子達が墓に行ったが、イエス様の体がそこにない、即ち復活された日のことです。ところが、二人は、その旅人がイエス様であると気付きません。目が遮られているのです。このことは何を意味するのでしょうか。復活のイエス様が目の前に現れてくださっても、イエス様ご自身が心の目を開いて下されない限り、復活の主を認めることができない、それはちょうどイエス様の在世中、ガリラヤからエルサレムまでの宣教旅行の間、弟子達がイエス様のことを神様の計画に従って私たちの為に死んで下さる真のメシアであると理解できなかったのと同じです。イエス様の活動、そして十字架、更に空の墓、この一連の歴史的な事実にも関わらず弟子達は理解できなかった…、ところでこの弟子達の姿は私たち人間の現実の姿ではないでしょうか。
この後、二人はどうなって行くでしょうか。道中、聖書を説き明かして下さるイエス様によって心が燃え、閉じていた心の目が次第に開かれていきます。そして、夕刻、食事の時、旅人がパンを裂き、二人に与えた瞬間、閉じられた目が開かれ、その旅人がイエス様であると理解するのです。しかし、その瞬間、イエス様は二人の目から「消えてしまいます」。この語はギリシア語の原意では確かに存在するが人間の肉眼では、通常見ることのできない、を意味します。ここで、大切なこと、それはイエス様が私達に常識的には見ることが出来ない御自分を現そうと私たちの閉じた目を「開こう」して下さる、しかもイエス様の方から近づいて下さることです。それはちょうど、二人の弟子に旅人として近づき、共に歩いて下さったようにです。復活の後も弟子達はイエス様の姿を墓の中に探し求めました、しかし、イエス様はお墓の中に見出せない、これは肉の目を持った私たち人間の限界です。この限界ある私たちの為にイエス様は、ご自分から近づき、時に閉じた目を「開こう」として下さるのではないでしょうか。私たちが祈り、集まる教会に気付く気付かないに関わらずイエス様は必ずおられます。そのことをいつも心に留め、日々歩んで参りましょう。