父と子と聖霊の御名によって、アーメン

聖職候補生 ヤコブ岩田光正
聖霊降臨後第1主日であり、三位一体主日の今週、父と子と聖霊なる三位一体神様の恵みについて心に留めたいと思います。今週の福音書は、マタイによる福音書の結び、所謂、大宣教命令です。復活のイエス様が、ガリラヤで、すべての国民を弟子として、洗礼を授け、私の教えを宣べ伝えなさいとお命じになる場面です。ここで、注目したいのが、洗礼を授ける時に、「父と子と聖霊の名によって」授けなさいとある個所です。私たちは、聖餐式の中で、司祭から「父と子と聖霊なる全能の神の恵みが、常に皆さんと共にありますように」の言葉を受ける時、よくここで十字を切ります。あるカトリックの司祭によれば、十字を切る行為には次のような意味があるそうです。初めの「父と子と」言って、額から胸へ引く縦の線は、天の父なる神様と神の独り子を結ぶ愛の垂直線、絶対なる親の愛が完全なる我が子へと流れる、永遠なる親子の絆を表し、次の「聖霊の御名によって」と言って左肩から右肩へ水平に引く横の線、これは、すべての人のすべての現実に及ぶ恵みの水平線、神の愛が、東から西まですべての被造物を満たし、初めから終わりまですべての歴史を貫いている聖霊の働きを表す、そしてこの縦線と横線が造る十字こそ、人間存在を支える聖なる座標軸で、その交点は十字を切る「私」、十字を切る行為はまさに「父と子と聖霊の交わり」の救いの恵みに与ること、故に十字を切ることが信仰の基本の基本、他に何もできなくてもこれで十分、大体このように書かれていました。今日の福音書の中でイエス様は、弟子たちに命令します。「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」そして、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。イエス様の宣教命令は今日の私たち教会に対して向けられたものでもあります。このイエス様の命令はある時は大きな励みとなります。しかし、宣教、宣教と力み過ぎると逆にしんどくなってしまうのが私たちの現実ではないでしょうか。ところで、信仰生活にもスランプがつきもの、気持が前に向かない時があります。野球選手がバッティングでスランプになったとき、よく基本に戻って徹底的に素振りをやると聞きます。何事もスランプになった時は、基本に返ることが鉄則のようです。確かに、十字を切ることなら指1本動かすことで出来る。とにかく、しんどい時は、とにかく十字を切ってみるのも良いかも知れません。
神様は、私たちを救いに招く為に、イエス様によって十字架のもとに集められました。そして、今も聖霊を導き主として十字架のもとに全ての民を招いておられます。イエス様は宣教命令の最後に語られます。「私は世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」。イエス様のお命じになった宣教。確かに、全ての人を弟子とする為、人を教会に導く努力も大切ですが、先ずは十字架のもとに集まることです。
何故なら、そこにはイエス様が「いつも供にいてくださる」からです。皆が主日の礼拝で「父と子と聖霊の交わり」である十字のもとに集い、十字を切って、アーメンと唱和する、このことが私たちに望まれる基本かつ十分な宣教であるように思います。

 

 

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