主よ、憐みをお与え下さい

聖職候補生 ダビデ 岩田光正
イエス様と弟子たち一行は、ファリサイ派や律法学者らの高まる敵意から逃れるため、国境を越えて、異邦人の地ティルスとシドンの地方に赴きます。今週の福音書の物語はそこで起こった物語です。
イエス様のところに、悪霊に取り憑かれた娘のために苦しむカナン人の女が出てきます。イエス様とカナンの女との出会い。物語は、娘を癒して欲しい一心で、女がイエス様に声を掛けるところから始まります。女性は3回語りかけ、イエス様も3回答えます。
「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」。この告白には、メシアの再来として熱狂的に評判が広まっていたイエス様のもとに藁をもすがる気持ちで駆けつけてきた女性の必死の思いが伝わってきます。「しかし、イエスは何もお答えにならなかった」。沈黙するイエス様、このような態度は、いままで見られませんでした。そして最初に発せられた言葉は意外なものです。「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。最初、イエス様はご自分が異邦人の地で、み業を行うことを、積極的に考えておられなかったのかもしれません。しかし、この突き放すようなイエス様の答えに対し女性は諦めずに、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と懇願します。しかし、今度もイエス様の答えは冷たいものでした。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」。ここまでのやりとりで私たちはイエス様が何故こんなに冷たい態度を取られるのか理解しかねます。そして、最後のやりとり。女性はすがるように訴えました。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。女性は、身を低くし、自分を小犬に喩えてまでも、主であるイエス様の溢れんばかりの恵みを願い求めます。そして、二人のやりとりを結ぶ最後の言葉。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」。そして娘の病気は癒されました。女性は、イエス様の拒むような態度にも関わらず、最後まで「主よ」と呼び続けました。そしてイエス様は「イスラエルの家の失われた羊のところに遣わされている」という使命を変え、女性の願いを聞き入れられたのです。彼女の粘り強い訴えがイエス様を動かしたのです。
諦めずに必死に祈り求めること、確かにカナンの女の物語は私たちに粘り強い祈りについて教えています。しかし、私たちはイエス様がカナンの女に取られた沈黙と拒絶を一体どう理解したら良いのでしょうか、私たちもこのカナンの女と同様、もはや自分では解決しようのない重荷を背負うことがあります。例えば肉親や伴侶が瀕死の状態の時、また不治の病にある時です。そのような時、私たち弱い人間はお祈りしても聞き入れられないだろうと諦めたり、又お祈りが本当に届いているのかと疑いを抱いてしまいます。現実、私たちの祈りの結果はこの女性の娘のように癒されることはまずありません。私たちはこのことを不条理と呼び、なぜ神様は私たちの祈りに何も答えず沈黙されるのかと嘆きます。
イエス様の沈黙。それは、イエス様の苦悩です。「主よ、わたしを憐れんでください」。イエス様は行き場のない群衆を見、いつも憐れまれます。苦悩の憐れみの中に、イエス様は待たれたのです。決して、突き放し、傍観されていません。最後、イエス様は神様のみ旨を成就する為に十字架という不思議なみ業を為されました。それは、神様が私たち人間すべてを救いへ導きたいとの究極的な憐れみの発露です。私たちは、生きていく中で、重荷を背負うことが多々あります。しかし、私たちの隣にいつも共におられるイエス様は、私たちを憐れみ、共に重荷を担って下さいます。私たちはそのことを忘れてはなりません。だから私たちも叫び続けたいものです。「主よ、憐みをお与え下さい」と。


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