我慢でなく赦す心の大切さ
聖職候補生 ヤコブ岩田光正
日本の諺に「仏の顔も三度まで」という諺があります。仏様のような温厚な人であっても、無茶なことを三度もされると、腹を立てるという意味です。皆さん、私たちの中で人から無茶なことを三度もされ、腹も立てず平常心でいられるほど温和な人などいないと思いますが、如何でしょうか。
さて、今日の福音書の初めに、ペトロがイエス様に質問します。「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか?」ペトロは、赦せる限度は、七回までですかとイエス様に質問します。ペトロの質問と先程の諺とは共通するものがあります。どちらも限度の回数が示されています。ユダヤ教の教師ラビたちの教えの中にも、この諺のように教訓的な格言がありました。その中では、「三度」までなら赦せとあります。「三度」というように回数の限度を設けること、ここに人間の限界があります。そう考えると、七度と言う回数は、当時の一般常識からすれば、非常に寛大な態度と言えます。
しかし、ペトロに対し、イエス様は七回どころか、七の七十倍までも赦しなさいと答えられます。ここでの「七の七十倍」とは、数えることの出来ない程度を意味します。七度という回数もとても大きな数字ですが、イエス様にとって、七度など全く寛大に値しない数字なのです。
譬えに一人の王が登場します。そこに負債のある一人の家来が連れてこられます。王はその家来に返済を求めますが、彼の借金は、1万タラントン、莫大な借金です。最初、王は彼に自分も妻子も持ち物も全てを売り、返済するように命令しますが、家来はひれ伏し「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と王に訴えます。彼の必死な求めに激しく同情し、負債を帳消しにしてやります。ところで、ここでの王とは神様のこと、また家来の負債とは、彼が今まで神様から離れ、犯した多くの罪のことです。譬えは続きます。この赦された家来が、今度は、自分に負債のある仲間に出会います。
金額は、百デナリオン、自分が帳消しにしてもらった負債に比べれば、実にわずかな金額です。ところが、仲間が「どうか待ってくれ。返すから」と自分が先程必死に懇願した、その同じ言葉で憐れみを求めているにも関わらず、家来は仲間を赦すことなく、牢に入れてしまいます。この後、事の次第を知った王は、怒り、その家来を牢役人に引き渡します。王はその時、家来に言います。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と。神様は、私達の背負いきれないくらい大きな罪をも赦してくださる一方で、私達にもお互いに罪を赦し合うことを望んでおられます。
ところで、私達はこの家来の態度に怒る資格があるでしょうか。ある意味、この家来は私達人間なら誰もが持っている弱さの一面を表しているように思えます。自分が知らない所でどれほど神様から赦して頂いているにも関わらず、一方、赦せない私達人間。
さて、イエス様の譬えを聞いた後、ペトロは最初その真意を理解できませんでした。しかし、ある出来事によって理解できました。それは、イエス様の十字架の死と復活です。復活のイエス様と出会い、ペトロは初めてイエス様の十字架の意味を知ります。
神様が自分の罪や背きを贖い、自分を赦し、愛して下さっていることを、その時やっと気づくのです。ペトロにとって、その時の赦しは、七回どころか、イエス様が仰っていたように七の七〇回、限りなく大きな赦しであったことでしょう。私たちも、日々の生活の中でさえ、誰かに赦されていることが、きっとあるはずです。
神様は私達人間が罪と背きによってもはや自力では返済できない多額の負債を我慢され、それを責めるどころか、逆に私達の苦しむ姿を深く憐れに思い、ついに御子を同じ人間として遣わしてくださいました。そして、イエス様は、十字架の死によって私達に代わり、負債を担い、返済して下さいました。
最後、私たちは今日の家来のようにではなく、二度、三度、また四度と少しでも多く赦せるようでありたい、何故なら私たちは計り知れない程に忍耐して下さり、多くを赦して下さっている神様を知っているからです。
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