「礼服」の着用は、「招き」への応答

聖職候補生 ヤコブ岩田光正
最近の結婚事情が紹介されていました。主催する側が一番気を配るのは料理内容だそうです。特に親の方が気を遣うとのこと。次に、招かれる側ですが、服装です。特に、女性はドレスに和服にと華やかに着飾っているようです。招かれる側が礼服を準備するのは今に限らず、当然のようです。確かに、ジーパンとTシャツ姿など想像できません。そして、今は貸衣装が主流のようです。なるほど購入するのに比べ、負担も軽くすみます。
今週の福音は「婚宴のたとえ」。イエス様は、天の国を宴会に譬えます。イエス様ご自身、徴税人や娼婦たち、当時罪人とされた人々と食事をされ、また最後の晩餐では、弟子たちとの食卓で、パンとぶどう酒を、私たちの為に流すご自分の体と血であるとさえ言われました。ここでの食事は王子の婚宴、王は、父なる神様、王子は御子イエス様のことです。婚宴には「招き」があります。「招き」と言っても、強制的なものもありますが、ここでの招きは、私たちに自由な応答が求められている招きです。食事は、招待する側ですべて用意するものです。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」。そこに行き、用意されたものを食べれば良いのです。
このように、信仰の道も、神様が全てを用意し、御子イエス・キリストの恵みの食卓に来なさいと呼びかけて下さるので、ただそこに行けば良いのです。しかし、現実、多くの人がこの単純な行為をしません。王は二度まで家来を遣わします。当時の習慣では、婚宴の招待は、最初を含めて二回行われました。しかし、ここでは3回行われています。王の寛容と忍耐が示されているのです。にも関わらず、大部分の人は、王の招きに応えず、ある人は畑に、ある人は商いに出掛けます。忙しさが理由です。
いつもこの世のことを優先し、神様のことを後回しにしてしまう私たち弱い人間の態度が表されています。更に、家来を殺してしまう者まで描かれています。家来とは、キリストの弟子です。当時の弟子たちの迫害が描かれています。
さて、王子の婚宴で始まる今週の譬には新約の教会が描かれています。教会をキリストの花嫁と呼ぶのはその為です。そして、さばきは、恵みへ道が開かれています。王様は、「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」と命じます。そして、家来たちは道に出て行き、悪人であれ、善人であれ見かけた人を皆集めてきました。皆とある様に婚宴に招かれる為に私たちに必要な条件は全く何もありません。血統や能力、資格、地位や財産、善悪さえ、例えば、世間の誰からも敬意を持って賞賛されるような善い行いも何の価値も持たないのです。私たちはただ招きに応じるだけで良いのです。
しかし、ここに礼服を着ずにいた者がいます。王は最初、「友よ、どうして婚礼の服を着ないでここに入って来たのか」と優しく尋ねます。中近東地方には王が客人に衣服を与えるという慣習があります。ならば、この客人は王様の贈り物を突き返したことになります。
しかし、王がこの無作法な者に対してもやさしく「友よ」と呼びかけた言葉に、最後まで悔い改めを求める神様の慈しみが表されていることを忘れてはなりません。
私たちは、ここに婚宴の席に与るために唯一つ、王が前もってくださった「礼服」だけは着用していなければならないことが分かりました。では、「礼服」とは、それはイエス様の十字架のことです。
イエス様が私たちの罪を贖う為に血を流して下さった十字架を私たちもイエス様に従って、担っているかいないかということです。勘違いしてはいけません、それは決して人に特別な資格や能力また道徳を要求しているのではありません。誰にでも出来ること、ただイエス様をキリストと信じて生きることです。
最後、天の国の王は、世継ぎである王子の婚宴の席に、今も人々を招いておられます。王は、私たちへの慈しみからご自分の最上であり、無二の愛する子羊を私たちの為に、屠らせ、食卓に整えて下さいました。そして、家来である弟子、即ち私たちに、命じておられます。「食事の用意が整いました。すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」。家来であり、弟子である私たち教会は、同時にキリストの花嫁として王子の婚宴の宴席に連なっています。神様の整えて下さった最高の婚宴に私たちは礼服を着ています。しかもこの礼服は、貸衣装どころか神様が惜しみなくただで恵んで下さった礼服なのです。

 

 

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