出来るだけのことは出来る恵み

聖職候補生 ヤコブ岩田光正
よく親は、賢く堅実だが自分を頼ってこない子供より、世話はやけるが頼ってくる子供ほど可愛いものだと言います。それは子供が自分のことを信頼していることが分かるからです。逆に親を信頼している子供は思い切って動けます。
早速、今週の福音に入ります。先週の「十人の乙女」に引き続き、今週の「タラントン」の譬と、主人の不在、即ち、キリスト者がイエス様の再臨までの間を如何に生きるかが主題です。
「天国は、次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた」。先ず主人が、僕を呼び、ご自身の財産を預けます。そして、主人は旅立ち、いまは不在です。しかし、私たちキリスト者は、地上の一切を神様の財産として持っています。預かった財産は、神様に由来します。大事なこと、預かったものは、返さなくてはなりません。次に、大切にしなければなりません、更に、ただ片付けたままでは宝の持ち腐れです、有効に用いなければなりません。
しかし、譬えのように人によって預かる賜物には違いがあります。ある者は、5タラントン、ある者は、2タラントン、もう一人は1タラントンでした。この時点で神様って随分、不公平だとは思われる方もおられるでしょう、現実、人間様々な相違があります。しかし、注目すべきは、帰還した主人が清算するに当たり、5タラントンと2タラントンの者いずれに対しても全く同じ言葉で褒めている点です。「忠実な良い僕だ。良くやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう」。神様には、5タラントン、2タラントンどちらも少しのものにすぎません。神様は額の多少でなく、預かったそれぞれの賜物を各々がどれだけ用いたかをご覧になります。ですから、一番賜物の少なく見える1タラントンの者も同じように賜物を有効に用いていたら、神様は同じ言葉で褒めていたはずです。コリントの信徒の手紙にパウロは書いています。「体の中で他よりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」。賜物は元々預り物ですから、自分の所有物のように誇るものではありませんし、また他と比較して卑屈になることもありません。自分に与えられたそのままを用いれば良いのです。神様は、私たちから決して無い物を求めません。だから私たちは、無い物ではなく、有る物だけで、神様に奉仕すれば良いのだと思います。
けれども、預かり物は、大いに活用すべきです。自分の賜物に見合った分を頑張ることが求められています。さて、ある本に書かれていました。「わたしたちは、何事をする場合でも、できるだけのことしかできません。それは同時に『出来るだけのことは出来る』ということです」。なんと素晴らしいことでしょう、「できるだけのことしか出来ない」ということでは、わたしたちはいつも「出来ない」という消極的側面ばかりを見てしまいます。
逆に「できるだけのことはできる「という、積極的側面を見失いがちです。1タラントンの賜物を預かった者が主人から「怠けものの、悪い僕だ」と叱責された理由は与えられた賜物を何ら用いずにいたからです。「出来るだけのことは出来る」、これが、銀行に預けることです。もし、他の人がどんなに能力があっても、彼よりももっと弱いように見える自分にしかできないことがあるはずです。「弱く見える」とは決して弱いのではありません。
1タラントンは人間の尺度で言う少ないではありません。人間の目には少ないと映っても、神様にはそれが必要です。1タラントンの者は神様の厳しさを恐れ、それを地面に隠しました。守ることだけを考えました。一方、前者二人は、主人が自分たちを信頼して財産を預けたという前提に立ち働きました。神様は私たちを信頼し賜物を与えられました。そして私たちも信頼し、賜物を存分に、時に冒険して用いることを望んでおられます。私たちは神様の大きな信頼の上にあります。その証拠がみ子イエス・キリストの十字架と復活です。十字架こそ初めは最も弱く見えるものの象徴でありましたが逆に最も強い信頼の証となりました。このことを覚え、私たちは今後も自分のタラントンを惜しまず用いていきたいものです。

 

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