御子の誕生、輝き渡る喜びの光

聖職候補生 ヤコブ岩田光正
  初めに主のご降誕をお祝い申し上げます。いま世界中の、また日本中の教会がこの待望の日を喜び、祈りの時を共にしております。
  暗い闇夜に太陽が昇り出て、曙光が輝き渡る、御子イエス・キリストの誕生は私たちキリスト者にとってこう表現しても到底形容出来ない程に、大いなる希望であり、慰めの出来事であります。私たちが、忘れてはならない大切なこと、それは御子の誕生という出来事は、今から2011年前、ユダヤのベツレヘム村、その中のある馬小屋の中で起こった単なる歴史的な出来事ではないということです。それ以上のものであります。神様が聖霊を通じ、救い主としてしかも私たちと同じ肉体を備えた人間としてこの地上に来臨してくださったのは、当時のイスラエルの民のみならず、時代を超え全ての人類、いまここに集う私たちのために他ならなかった、私たちが根源的な罪に苦しむ姿がいたたまれずついに天上の高みから、低き私たちの所に降りてきてくださった、だからこそわたしたちは心の底からこの出来事を喜び祝うことができるのです。
  さて、ルカ福音書にあります通り、この救い主の誕生を最初に告げ知らされたのは、夜通し、野宿をしながら羊の番をしていた羊飼いたちでした。羊飼いは、当時貧しく、また職業上、安息日を守れないために、人々から軽蔑されていました。王侯貴族でもなく、町の中で豊かに暮らす人々でもなく、御子を最初に拝む栄誉を与えられたのは、彼ら羊飼いたちでした、何故でしょうか。聖書には書かれていません。ただ、明確なこと、それは彼らが、天使の言うことみたことを素直に信じ、実際その通りに動いたということ、です。「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」。これは仮定の話ですが、もしも天使たちが、王侯貴族や町の裕福な人たちに御子の誕生を告げ知らせていたとしたら、彼らはどのように応答したでしょうか。確かなことは言えませんが、これだけは言えます。もし、信じることがなければ、たとえ飼い葉桶の中の御子を見ても、それはただ普通に乳飲み子が寝ているに過ぎないと言うことです。
  話は変わりますが、子供向けのクリスマス物語の絵本を一度ご覧下さい。ほとんどと言って良い程に、飼い葉桶の中に眠るイエス様がまぶしいばかりに黄金色に輝いて描かれています。一体、何で光っているのでしょうか。イエス様が御子に相応しく身体から光を放っているのでしょうか。違います。あるいは、馬小屋に灯るローソクの光がイエス様に反射していたのでしょうか。それも違います。私は思います。それは救い主の到来を心の底から待ち望んでいて、素直に天使の言葉を信じえた心貧しき羊飼いたちの輝くばかりの喜びが、イエス様に投影しているのではないでしょうか。長い長い何時果てるとも知れない暗闇に差し込んできた希望の光。羊飼いたちの喜びの大きさとはこのようなものであったことでしょう。
  今年もまもなく終わろうとしています。世界、国内で様々な出来事がありました。明るい話題もありますが、総じて経済不安が世界を覆っています。そして、何よりも、東日本大震災の被災地では大半の被災者がいまだ復興とは程遠い厳しい生活を余儀なくされています。先日、テレビにこのような中にあっても希望を失うことなく、地元の有志の人々が大きなクリスマス・ツリーを町の真ん中に立て、そこに犠牲となった方々の数だけ、ローソクを灯し、町の再建を誓い、お祈りすると言う試みが紹介されていました。私も思わず目尻が熱くなりました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」被災地の人々に一刻も早く、平和が与えられますように。そして、「キリストの光」が輝きますようにと心の内にお祈りしました。
  最後、羊飼いたちは天使の声を信じて動き、御子を拝むことが出来ました。私たちは幸いにも恵みによってイエス様がキリストであることを知っています。故に、あの時の羊飼いに劣らず喜びの光を輝かせたいものです。そしてこの暗い時代にあって世の光でありたいものです。

 

 

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