自分を委ねる心こそ最高の献げ物

執事 ヤコブ岩田光正
旧約聖書の申命記では、やもめは孤児や寄留者と並んで、保護が最も必要な者とみなされ、またやもめに対する配慮は宗教的な義務となっていました。しかし、現実はなかなか守られていなかったようです。今日の旧約聖書でも、あと一握りの小麦粉を食べてしまえばもはや死ぬしかない、一人息子を抱えた貧しいやもめが登場しますが、神は預言者エリヤによってこの貧しいやもめを救い保護しますが、聖書の中でやもめは人に頼るすべを持たず、神にのみ信頼して生きる弱い存在の代表でした。
今週の福音を見て参りましょう。前半、イエス様は「律法学者に気をつけなさい」と教えられます。イエス様は律法学者という存在自体を批判しているわけではありません。長い衣服や挨拶に象徴されるような権威と尊厳をめ、そして自分の立場を利用し、自分の欲を満たすために保護されるべき人々からも搾りとろうとする偽善的な行為を否定しているのです。「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」とあります、そのような律法学者は自分が仕える神の姿を見失っています。神への信頼ではなく、自分の力があたかも神のごとく偉大なものであるかのように誇ろうとする彼らの姿。イエス様はそんな彼らに対し「人一倍厳しい裁きを受ける」と断言されます。
そして、後半、神殿の向かいに座るイエス様は、一人の貧しいやもめが2レプトン入れるのを目に留められます。神殿には、たくさんの参拝者が訪れ、それぞれに賽銭を入れていました。そのような沢山の人々の中からイエス様は一人の貧しいやもめに目を留められます。2レプトンは、当時の労働者1日分の賃金の、128分の1に当たる小銭です。金額の多少では、2レプトンは取るに足らない額です。それにも関わらず、イエス様は彼女のことを「だれよりもたくさん入れた」と述べられたのです。何故?このやもめは貧しいながらも「持っている物をすべて」「生活費を全部」入れたからだと。ここで誤解してはならないのは、イエス様は決して比率の問題、つまり自分の持っている100%を献げたからこの女を賞賛している訳ではありません。イエス様が賞賛したのは彼女が、神様を愛し信頼し、すべてを委ねて生きている姿勢です。神様が求められるのはどんな焼きつくす捧げものでもなく、その砕かれた心で、そのような生き方にイエス様は目を留められたのです。
さて、今日の福音書で前半、批判された律法学者、そして後半、賞賛を受けたやもめ。2者は対照的な存在です。一方は、社会的な地位を利用、自分の権力を誇示し、弱い者をも顧みず、ひたすら奪い取ろうとする存在、そして他方は、その日暮しのわずかな糧で生きている、社会の中で最も弱い立場で生きる存在です。
ところで、イエス様の十字架、十字架はその時は地上にあって最も弱い存在の代表でした。しかし、十字架のイエス様こそ最高の献げものとなってくださいました。イエス様はご自身の命を捧げて下さいました。乏しい中からすべての持ち物をいれたあの貧しいやもめではありませんが、イエス様は限りなく多くのものを入れてくださったのです。それは、あの貧しいやもめのように、神に自分を委ねる全ての者が神様の慈しみである永久の命に生きるためです。私たち教会は、イエス様のこの尊い献げものという恵みの中にあります。
私たちはこの恵みを常に心に留めたいものです、そして私たちもこれからの生活の中であの貧しいやもめのように神様にすべてを委ねていける者でありたい、神様はどんな献げ物よりもすべてをご自分に向けようとする心を求めておられます。心を尽し、精神を尽し、思いを尽して主なる神様を愛して参りましょう。

 

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