真の命にあふれる「神殿」の再建

聖職候補生 ヤコブ岩田光正
今週の福音は、イエス様の宮清めの箇所です。時は過越祭が間近、場所は壮麗なエルサレムの神殿、付近は各地から神殿への税金を納めるため、また動物などの献げ物をするための巡礼者でごったがえしています。
さて神殿とは本来、エゼキエル書にあるように、全てのものに命をもたらす神の
住まいです。しかし、現実は人間の欲望の住まいと化していました。神殿の一角では、牛や羊など犠牲に捧げる動物が売買され、又両替が行われていました。
「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
しかし、一方で商売は参拝者に必要でした。何故なら、犠牲の動物を遠くから引いてくるのは大変ですし、神殿へ納める税金も特別な貨幣に両替しなければならなかったからです。その中にあってイエス様の言動は常軌を逸したものであり、大いに人々の怒りを招いたはずです。
「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し」
この出来事が契機となり、当時の宗教的指導者たちのイエス様に対する敵意と殺意が決定的なものとなったと言われています。
「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。
自分たちの立場を否定されて、怒ったユダヤ人たちがイエス様に言いました。何の権威でこんなことをするのか。わたしたちに奇跡を見せてもらおうではないか。
そうすれば、おまえが父の家と言うように神の子だと信じよう。彼らの言葉の真意はこのようなものであったと思われます。
では、イエス様の激しい怒りは、誰に向けられたのでしょうか。それは人間が人間であるが故に持っている罪。罪を憎んで人を憎まずという言葉がありますが、イエス様はこの罪に激しくお怒りになられたのではないかと思うのです。神様中心の神殿を神様不在、人間中心の欲望のすまいと変えてしまう人間の罪。神の子であるにも関わらず、私たちと同じ体を備え、人となって下さったイエス様は人間故の弱さも知っておられました。この時の憤りは、私たち人間への憐みと慈しみの故の激しい葛藤から発せられたもの、私にはそう思われるのです。
「羊や牛をすべて境内から追い出し」
神殿が商売の家にならないようにするには、いけにえの動物を用いない神殿が必要です。まさにそのためにイエス様は十字架に上がられ、自らの身体をいけにえとして捧げられたのです。そのことを前もって示すために、イエス様は羊や牛を境内から追い出したのです。
イエスは、答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。3日で建て直してみせる。」
しかし、イエス様は死んで終わりませんでした。その後、3日目に復活されます。
「建て直す」という言葉は、原語では「エゲイロー」、復活を意味する言葉です。つまり、イエス様がここで言われた「神殿」とは、エルサレムの神殿のことではなく、ご自分の身体のことでした。
正にイエス様は、ここでご自分のご受難とご復活を予告されているのです。勿論、その時、人々はだれも真意を理解できませんでした。彼らの「しるし」とは、目に見える形ある「神殿」を超えることができません。しかし、後に弟子たちは、このイエス様の言葉を理解しました。イエス様があの時に仰っていた「しるし」とは、ご復活のことであったのだと…。
つまり、イエス様は人間の思い欲望によって壊された「神殿」となりましたが、その3日後、再建された「神殿」となったのです。
ところで、エルサレム神殿は紀元70年、イエス様の十字架から40年後にローマ軍によって破壊されてしまいます。その後再建されることなく廃墟となって今に至っています。
ところが、イエス様が建て直された「神殿」―その「神殿」が「教会」です。「キリストの体」としての教会。教会は、もはやいけにえを求めません。
中心はいつもイエス様です。私たち人間の罪を憎んで、自らの体で建て直して下さった神殿。それは、私たちの人間的な思いや欲望の住まいではなく、私たちの罪が赦され、新しい命に生かされるため場だということです。このことを深く心に留めたいものです。

 

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