天から降ってきたパンを頂く恵み

執事 ヤコブ岩田光正
旧約聖書には、主なる神が荒れ野で飢えたイスラエルの民にマナを食べさせられた理由について、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(申8:3)と書かれています。因みにマナ
とはシナイ半島に生息する「ぎょりゅう」から分泌する樹液が、地に落ちて固まったもので、夜を越すと腐敗するので毎朝夜明けに採集し、臼でついて煮るか焼くかして食べたクリーム味のする食べ物と言われています。マナは日常的な糧である
パンのない荒れ野にあって、約束の地まで導いて下さった主なる神様からの恵みでした。
しかし、今週の福音の中で、このマナを食べた民についてイエス様は、次のように仰っています。「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。」ここでイエス様は「死んでしまう」という言葉を直前の「永遠の命」に対立するニュアンスの言葉として用いられています。では「永遠の命」を得るためにイエス様はどうしなさいと語っておられるでしょうか?「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」
「信じる」。イエス様は「信じる」ことで人はすでに「永遠の命」の状態にある、だから信じなさいと断言されています。では、何を信じたら良いのでしょうか。イエス様のことを「天から降って来たパンである」と信じることです。無理もないことですが、「ユダヤ人」たちは信じることができませんでした。自分のことを預言者としてならまだしも、父も母も知っている、あのヨセフの息子イエスが自分を「天から降って来たパンである」と言っている、彼らにとってはもはやイエス様の言葉は理解できないばかりか狂人の妄言と映ったことでしょう。不平や非難を込めてささやきました。そんな彼らにイエス様は答えて言われました。
 つぶやき合うのはやめなさい。わたしがお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる」。
その昔、主なる神様は荒れ野でマナを与えられましたが、結局、彼らは死んでしまいました。しかし、神様の私たちに対する憐れみはこれに終わるものではありませんでした。人間をだれ一人失うことなくご自分との交わり、永遠の命に引き寄せようという自らのみ心を遂に実現して下さいました。2千年前の出来事です。それは独り子であるイエス様を天からのパンとしてお与えになり、このパンを食べる者が永遠に生きるために他なりません。この神様の最高の憐れみによるみ業は後にイエス様の十字架と復活によって成就され、弟子たちの目に、また「信じる」ことで今日の私たち肉の目にも明らかにされました。このパンを食べるか食べないか、それは信じるか信じないかと同義です。
  「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」
ところで、ヨハネ福音書は紀元一世紀頃、「ユダヤ人」からの迫害が厳しさを増す最中、イエスをキリストと信じるある共同体が必死に信仰を守り続けていく過程で、福音記者ヨハネが、兄弟姉妹が決して動揺することなくイエス様を信じ続けるよう鼓舞激励するために描いたとされています。イエス様の言葉は正に自分たちに向けられたものでした。信仰生活は彼らにとって「荒れ野」を旅する様に命がけであり、厳しいものでした。しかし、そんな困難な状況だからこそイエス様の言葉は彼らにとって切実であり、恵みの、しかも決して朽ちない「マナ」でありました。永遠の命を確信して疑いませんでした。
  最後、イエス様は、今の私たち教会の一人一人にも語りかけておられます。「わたしは命のパンである」。迫害もなく、物質的にも豊か、一見平和な今日の日本、荒れ野とは無縁の世界です。しかし、半面、神様からの恵みに鈍感になりがちです。それは時に、心の「荒廃」を招きかねません。私たちは永遠の命というパンの恵みをすでに頂いているということを常に心に留め、感謝しつつ日々歩んで参りたいものです。

 

もどる