「しるし」に現わされた神様の応答

執事 ヤコブ岩田光正
 今週の福音はヨハネ福音書のイエス様が現わされた最初のしるし、カナの婚礼での物語です。
 ヨハネはイエス様が行う不思議な奇跡を「しるし」と呼びます。それはその出来事が単なる不思議な出来事ではなく、神様がどのような方なのかを映し出す出来事だからです。その出来事の奥には神様のメッセージがあります。それでは、このカナの婚礼でのしるしには神様のどのようなメッセージが込められているのでしょうか。福音を見て参りましょう。
 恐らくマリアの親戚筋でしょう、カナという村のある婚礼の宴席にイエス様と母マリア、それにペテロはじめ弟子たちが招かれました。華やかな宴席にはぶどう酒は欠かすことのできないものですが、そのぶどう酒が底を尽きかけたことに母はいち早く気付きました。宴席の途中でお酒がなくなれば、ホスト役の花婿は恥をかくことになります。母はそのことをイエス様に告げます。「ぶどう酒がなくなりました。」その時の母の心情は全く描かれていません。ただこの短い言葉の行間に母の信仰を垣間見ることができます。それは御使いから受胎告知を聞いた時にマリアが答えた「私は主のはしためです。あなたのお言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ1:39)の信仰です。また、同じルカ2章51節にはイエス様の十二才の時のエルサレム神殿での記事があります。イエス様の両親は、「イエスの語られたことばの意味がわからなかった」とありますが、「母はこれらのことをみな、心に留めていた」と記されています。母はイエス様の言葉を深く心を留め、思い巡らせていたのです。母マリアのみ言葉に対する信仰という背景があって彼女はこの言葉を発したのです。
 この母の言葉に対してイエス様は「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです」と答えます。単純に読めばイエス様が冷たく母の申し出を拒絶したように響きます。しかし、その後、イエス様が「わたしの時はまだ来ていません」と述べられたように、イエス様はご自分の力が現わされるのは父なる神様が望まれた時だということを母に伝えているのです。その時とは後に明かにされるように彼が栄光を受ける時、即ち十0字架とご復活の時です。イエス様は神の望みでなければ何も行いません。たとえ母でもその望みには応えられないことを告げ、母の思いを専ら神に向けようとしたのです。ただイエス様も確信していたはずです。神様が望めばぶどう酒は備えられるはずだと。そしてマリアは深い信頼の内にその言葉を受け止めて「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」と、召し使いたちに言います。そして召し使いたちもその後のイエス様の言葉どおりに従い、動きました。するとどうでしょう。水がめに満たした水が豊潤なぶどう酒に変わっていたのです。この奇跡は神に信頼するイエス様と母アリア、そして人々に対する神様の応答です。この物語には特別な所作や細かい言葉は何もありません。また、水がぶどう酒に変わる過程も描かれていません。人知れず、密やかにしるしが現わされたのです。けれどもむしろそれだけにこの物語は神様がどのような存在であるかを雄弁に語っています。つまり神様はご自分を信頼し待望する人々の中にはたとえ困難な時にあってもイエス様という存在を通して、人々の知らない内に救いの手を伸ばしてくださるお方なのです。
 新年に当たり、大津聖マリア教会に連なる私たちもこの物語同様、神様にいつも信頼し、心と思いを一つにこれからも待望していきましょう。困難な課題もあるでしょう。しかし、その先にはきっと水がめの縁からぶどう酒が溢れんばかりに神様の恵みである「しるし」、神様の栄光が現わされることを期待しつつ待望していきましょう。

 

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