ご復活の先取りとしての栄光の御姿
執事 ヤコブ岩田光正
「イエスの顔の様子が変り、服は真っ白に輝いた」。
山は聖書の時代、神様が顕現する場でした。この山の上でのイエス様の栄光の御姿は、私たちに語っています。「安心しなさい。 十字架は最後ではありません、必ず、神はその栄光をイエス様に現わされます」。この栄光に輝く御姿こそイエス様のご復活の先取り、弟子たちに示された大いなる希望のしるしであったのです。モーセとエリヤが出てきますが、この2人は旧約、律法と預言者の代表で、2人がイエス様のエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していたとあります。
「最後」と訳された語は「エクソドス」、出発・旅立ちを意味します。イエス様は死へと旅立ちますが、それは同時に栄光への旅立ちであります。つまり、ここでの2人とイエス様はイエス様の死を乗り越えた栄光への出発について語り合っていたのです。
一方、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、イエス様と共に山に登った3人の弟子たち、彼らは、先ほどのモーセとエリヤが旧約聖書の代表であるのに対し、新約の証し人の代表と言えないでしょうか、しかし先の2人が栄光に包まれて現れたのとは対照的に、ひどい眠気をじっとこらえているという姿で描かれています。こんな3人の弟子たちは弱さを持つ私たち人間の姿でもあります。肝心の時にあっても私たちはこのような大切な瞬間に気付かないものです。イエス様ご自身、子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることはできないと仰っています、だからイエス様はそんな弱い私たちのために父なる神に祈ってくださいます。そんな中、眠気が覚めたペテロは目の前の光景の素晴らしさにうっとりとなってイエス様に向かって言います。
「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためにです」と。
ところで、ここでのペテロは自分の言っている意味が分かりませんでした。彼は、いま目の前に現れたこのイエス様の栄光のお姿こそ前もって神様が現わして下さった復活の先取りであることが分からなかったのです。イエス様は「人の子は必ず多くの苦しみを受け、殺され」、ペテロはイエス様のこの言葉の言わんとすることは分かったことでしょう、信じたくはないが、自分たちの尊敬するイエス様はもしかしたら英雄のような最後すなわち死を遂げるのだろうかと・・・しかし、「3日目に復活することになっている」ペテロが分からなかったのはこのことです。ペテロの姿は実は私たちの姿でもあります。
私たちの主があのモーセとエリヤに囲まれ偉大な栄光を帯びた姿で今目の前におられる、こんな素晴らしい瞬間があろうか、だからイエス様にはこの栄光のまま留まっていて頂きたい、山から下りずにこのままずっと、まして死などあってほしくない、だから小屋を建てたいと願ったのです。しかし、神様が支配する永遠を、私たちの住むこの地上の過ぎ行くものに留めておく事はできません。この後、山の下はどうでしょう、イエス様を待つ大勢の群衆がいました。もしも、ペトロが、この時、イエス様の栄光を三つの小屋に留めておいたとしたら、この地上の苦しみはどうなるのでしようか。しかし、決して、主は、苦し
みを受けて死にそのまま留めおかれることはありませんでした。山上での栄光は、にわかに雲で覆われました。彼らは雲に覆われていくことを恐れました。しかし、そんな中、雲の中から声が聞こえます。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」その後、どうでしょうか、2人は消えていませんでしたが、イエス様だけは消えることなくちゃんと留まってくださいました。そうです。私たちが神様のみ旨の通り、救いの御業にあずかるためです。
「これに聞け」私たちが困難にある時、地上で途方に暮れた時、イエス様に聞くことができます。死ぬほどの危機に直面した時、確かに復活された、この復活の主に聞くことができるのです。祈りの内にイエス・キリストはきっと応えてくれるでしょう。十字架の苦難の後には、必ず復活の喜びが続きます。わたしの永遠の命はあなたたちにも約束されていますと。