「重荷」ではない自分の十字架
執事 ヤコブ岩田光正
「人の一生は重きを負うて遠き道を行くがごとし」「重荷が人をつくる身軽足軽では人は出来ぬ」―戦国武将・徳川家康の名言集にありました。長い人生には困難は付き物、でもその困難という重荷を避けることなく忍耐していく中で人は成長していくのだ、さすがに天下人の言葉だけあって経験に裏打ちされたとても説得力のある言葉です。でも同時に、これまで重荷を担ぎ続けたしんどい思いがひしひしと伝わってきます。本当にしんどかったんだろうなって…もちろん、他人事ではありません。人はだれでも人生においてそれぞれに重荷があるものです。出来ることなら避けて通りたい、しかし担がねばならないのが人の世の常だと思います。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(ルカ9:23-24)
イエス様は私たちに十字架を背負いなさいと語られます。しかも自分を捨てて、背負いなさいと、とても厳しい言葉として私たちには響いてきます。先程の家康の言葉でいう重荷と同じ様に、です。しかし、私たちが背負う十字架とは一体、家康が言ったような意味での重荷なのでしょうか? そこで、今週の福音を最初から少しみてみましょう。
イエス様は「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と、弟子に質問を投げかけます。このイエス様の問いに対して、ペトロは「神からのメシアです」と答えます。この時点でペテロは、当時、人々が期待していたイスラエルを復興してくれる政治的な王のことを考えていたのでしょう。だから、イエス様は誤解が広がらない様に「だれにも話さないように」と沈黙を命じます。何故なら、「神からのメシア」は「必ず苦しみを受け、排斥され、殺され、復活することになっている」からです。神の救いの計画には復活だけでなく、その前に苦難が不可欠なのです。しかし、苦しむのはイエス様だけでなく、神も共に苦しまれました。御子の苦難は人類の救いに必要な過程なので、神は苦しむイエス様を助けることもできず、共に忍耐せねばならないからです。しかし、この神との緊密な交わりの故にイエス様は十字架を降りることなく最後まで担われました。そして、この苦難を経たからこそ、その後復活という永遠の命である神の救いが明らかにされたのです。
「命」を得るためにイエス様は「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と語られます。だとすれば私たちはイエス様が父なる神に対し、そうであった様に、私たちもイエス様と深い交わりに入るため自分の都合だけを考えるような自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエス様に従わなくてはならないのでしょう。私たちが日々、背負う十字架、それはイエス様に従うことから生じる日々の様々な困難のことです。しかし、忍耐は必要ですがこの十字架は決してしんどい「重荷」ではありません。何故なら、孤独ではない、私たちの前には今もまたいつも共に十字架を背負ってくださっているイエス様が歩いてくださっています。そして、その向こうには「命」が約束されています。だからたとえ困難な時にも忍耐し得るのです。ですから私たちはいつも日々の十字架こそ重荷ではなく、むしろ希望と命の源と呼びたいものです。 (聖霊降臨後第5主日日課から)