神の国に入るための「にじり口」

          執事 ヤコブ岩田 光正
 茶道の茶器を扱う作法がミサの所作に由来するのと同様に、茶室のにじり口は聖書のある言葉に起源を持つという説があります。茶室とは非日常の空間、亭主と客との緊張感、また部屋の中の客との連帯感はこのにじり口があってこそ深まるそうです。この入口を入る時、人は頭を下げ、正座をしたまま手をぐーに結び親指で畳を押しながら体を進めるという日常生活にはない無理な姿勢を強いられます。
これにはにじり口が簡単に日常を持ち込むことを拒む人目であり、無理をしてくぐり抜けることで新しい世界が開ける入口であるという意味があるそうです。又、にじり口には、武士も商人も誰も身分の差なく、同じように頭を下げなければ入れない、茶室に入れば平等であるという意味も込められているとか、実際、武士は大切な刀を預けなければ、にじり口に入ることはできませんでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」   (ルカによる福音書第1324
 エルサレムに進むイエス様に「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と質問する人にイエス様が答えられた言葉です。
 「狭い戸口」とはイエス様のことです。しかし、イエス様の 「戸口」を狭くしてしまうのは決してイエス様ではありません。それはイエス様と出会う私たちの心です。「入ろうとしても入れない人が多いのだ。」この後、戸を閉めてしまう家の主人の譬えにあるようにイスラエルの民はイエス様という救い主に出会い、神の国の「戸口」が目の前に開かれているにも関わらず入るうとしませんでした。何故なら、イエス様をみ子と信じることができなかったからです。彼らにとってイエス様は余りにも「狭い戸口」だったのです。
 しかし、イエス様は人が一人でも閉めた戸外に投げ出され、泣きわめいて歯ぎしりすることを良しとはしませんでした。ですからイエス様は最後、父なる神の万人をみ国に招こうとするみ旨を果すため十字架に架かって下さったのです。そしてその後、神の力によって復活されました。それはアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるイスラエルの民だけでなく東から西から、また南から北から来る世界中すべての信じる者が神の国で宴席に着くためにです。
 イエス様の招かれている「狭い戸口」とは茶室の「にじり口」です。イエス様の戸口も狭い戸口ですが、決して入ることができないわけではありません。ある意味、誰でも入ることができる「広い戸口」と言えるかもしれません。イエス様の「戸口」を入るために大切なこと、それは「自分の力」という「刀」を預けることです。そして、謙虚に頭を低くして戸口をにじり進むことです。イエス様を信じ身をゆだねる姿勢、それこそ神の国に入るためにイエス様が唯一私たちに求めておられることなのでしょう。
                                 
                                 〈聖霊降臨後第
14主日の聖書日課の福音書から〉

 

もどる