イエス様こそ神さまの真の「律法」
司祭 ヤコブ岩田光正
今週の旧約「ネヘミヤ記」は、イエス様の誕生される約500年前のお話です。捕囚の地バビロニアからエルサレムに帰還したユダヤの民は、廃墟になった神殿を再建します。民は、新しい神殿に集まり、祭司エズラから律法の書の説明に耳を傾けました。律法を耳にした時、民は皆泣いていたと記されています。
彼らは、何故泣いたのでしょうか?勿論、神殿再建という喜びの涙でもあったかもしれません。しかし、この時彼らが流した涙は、悔し涙であったと思います。律法をこれまで守ることができず、神さまに背き続けていたこと、だから祖国滅亡という苦難を経験することになった…この時、民は痛切に後悔していたのです、同時にこれからは律法を守る決意を固く心に刻んで いたことでしょう。それから500年余りの歳月が経ちました。果たして、律法の言葉を聞き、今から後は厳守しようとした律法、人々は守ることができたでしょうか?律法を厳守しようとする余り、次第に律法を守るための規則があれもこれもと作られていきます。イエス様の時代、もはや律法の教師でさえ守れない位、律法はもはや誰も守れない程、元来の神さまの恵みという本質から乖離、反対に人々を苦しめる存在にまでなっていました。結局、人々は自分たちの努力で守ることなどできなかったのです。
そんな時、イエス様が来られたのです。神さまは律法を人々が自力で守ることを断念されました。しかし、神さまは民を決して見放されませんでした。反対に何としても守り抜こうと、ご自分の独り子さえ惜しまず民の間に送ってくださったのです。
そこで、今週の福音です。ヨハネから洗礼を受けられたイエス様は荒れ野で悪魔の誘惑を退けられた後、霊の力に満たされガリラヤに帰られます。 イエス様は、諸会堂を伝道して回り、教える会堂どこでも尊敬を集められ、評判は広まる一方でした。そして、今週の箇所、故郷ナザレの会堂でお話を始められたのです。
ところで、イエス様は本来のユダヤ教の教え、律法にある神さまの言葉を否定して、新しいキリスト教という教派を立ち上げようとされたのではありません。それは福音にもあります様に、イエス様がユダヤ教の礼拝に則って神さまの言葉を教えておられたことからも分かります。イエス様は、律法主義に形骸化していた当時の律法ではなく、元々の神さまからの恵みと して伝えておられたのです。
イエス様がナザレの会堂で礼拝係から手渡された聖書の巻物はイザヤ書でした。「目に留まった」とありますが、それは偶然にそこの箇所が開かれ目に留まったのではないでしょう。イエス様はきっとある意図からこの箇所を選んで朗読されたのです。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
さて、イエス様はこの後、このイザヤ書について「話し始められました。 しかし、イエス様はここでこの箇所について全く何も説明しておられません。つまり、会堂の礼拝でイエス様がお話されたのは、所謂教会の説教の様な次元ではありません。イエス様は話された一言は宣言であったのです。
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。
律法を教えて「こうしなさい」「ああしてはいけない」と言う説明は倫理道徳や規則です。それに対し、イエス様の「宣言」は、神さまの私たちに対する救いの約束、イザヤの預言の開始宣言であったのです。では、救いとは何でしょうか、それは人を縛り、また盲目にしていた「律法」からの解放、そして、主の恵みに導くことです。
結局、イエス様は「律法主義」のために十字架に架けられます。しかし、その後、神さまは御子を復活させられました。ここに、神さまは救いのみ業を成就させられました。それは御子を信じる者が一人も滅びることなく永遠の命を得るためであったのです。
最後、主は今も教会においてこの時、ナザレの会堂でと同じ様に、このイザヤ書の言葉を朗読し、私たちに語っておられるのではないでしょうか? 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。そして、私たちが生活の中で、また教会においても自分たちの中でいつの間にか作ってしまい、逆に縛られたり、苦悩している「律法」から絶えず私たちを解放し、神さまの恵みに目を開こうと働いて下さっています。私たちは 「律法」を自分の力で守ることなどできません。イエス様を信じ、イエス様の道を共に歩む中で真に「律法」に生きることができるのだと思います。
(顕現後第3主日の聖書日課から)