隣人とは「行ってあなたも同じようにしなさい」(ルカ1037

        執事 アントニオ出口 崇
  「良きサマリヤ人」と呼ばれる、有名なイエス様のたとえ話がルカ福音書にはあります。律法の専門家、律法学者との対話、議論の中で、「隣人とはだれか?」という問いに対してイエス様はこのたとえを言われます。
 たとえ話は、日曜学校などで子どもの頃に紙芝居や絵本などでよく読まれています。強盗に襲われて傷ついているユダヤ人を、当時社会的に偉い人といわれていた祭司やレビ人は見てみない振りをして通り過ぎるが、3番目に通りかかったサマリヤ人という、ユダヤ人と敵対していて嫌われている人が、傷ついたユダヤ人をやさしく介抱してくれた。という話です。子どものころに聞いた記憶では、「こういうやさしい人になりましょう。」というような話でしたが、今読んでみると、このたとえ話自体が、律法の専門家にたいする強烈な批判であり、同時に今現在を生きている私たち一人ひとりが持っている「自分自身を正当化しようとする思い」をも批判されています。
家族を大切に、周りの人や、友達を大切に、という言葉は子どものころから何度も聞いていましたし、キリスト教だけの専売特許ではありません。
 幼稚園や、日曜学校での子どもたちへの礼拝などで何度も、私自身が子どもたちに言っていました。しかし言っておきながら、自分自身がそれを実践していない。仲良くすることは良いこととは分かっていても、全く逆のことをしてしまう。子どもたちに何かを伝える時に、自分が出来ていないことを偉そうに言ってしまっている、ということが多々あります。自分の言葉が実際の自分の身の丈「実存」からかけ離れているということを経験します。
 今まで生きてきた中で、たくさんの人と出会い、関わりを持ってきましたが、その関わりが全て今も続いているわけではありませんし、中には傷つけたり傷つけられたりしてとても残念な関係で去って行った人たちもたくさんいます。
  「あの人は友達ではない、なかった」
と声に出すか出さないかは別として、丁寧に関われなかったときや、その人が本当に困っていることに目を向けないようにしている時、少し後ろめたい思いを持っている自分自身に言い訳をしています。
ではそもそも友達って何なのか?隣人って何なのか?どういう人のことを言うのだろうか?と、自分の中で基準や条件を捜してしまうことがおりますが、それもまた自分自身を正当化しようとする思いなのではないでしょうか。
 
 イエス様のたとえ話は、説明する必要が無いくらい分かりやすく、隣人とは、苦しい時に手を差し伸べてくれる人。律法学者の「隣人とは誰か?」という問いに対して、「行ってあなたも同じようにしなさい」と、隣人には条件も基準も無く、このサマリヤ人のように、見て憐れに思い、近づいていく。それこそが隣人であるとイエス様は言われます。
 追いはぎに会ったひとの脇を通り過ぎた2人のように、このサマリヤ人も、傷ついた旅人を見ても、「自分とは関係がない、敵対しているユダヤ人を助ける義理はない」と思えば近づくこともありませんでしたし、ひどい人間だと非難されることも無かったと思います。
 ただ、見て、憐れに思った。というそのサマリヤ人の心の動きがあったからこそ、近づき手を差し伸べたという行動に移りました。
 以前にも聞いたことがあるかもしれませんが、この「憐れに思う」と訳されている言葉は、原文の意味では「はらわたが突き動かされる」です。その人の痛み、苫しみが、自分のはらわたの痛みのように感じる。言葉ではなかなか説明できない「真の同情」といいますか、理屈ではない、痛みを伴う心の動きのことであります。他の翻訳の聖書では、「はらわたする」と言う、そのままの言葉が使われています。
 「隣人を愛する」というのはただの言葉での良い教えではなく、条件も、基準もない、ただ「はらわたする」という思いからの行動のことなのではないでしようか?
  「行ってあなたも同じようにしなさい」
 わたしたちの中にも、「見て、はらわたして、近寄って行く」という体験があるはずです。しかし、いつもそうとは限らず、「見ても、はらわたしない」ということもあるでしょうし、「見て、はらわたしても、近寄っていかない、又はいけない」ということもあるでしよう
 しかし、そんな教えの通りに行動できない、自分自身を正当化しようとする気持ち、弱さを抱えたままの私たち一人ひとりを見て、憐れに思い、近寄ってくださる。
 出来ない弱さを抱えた私たちの元に何の条件も基準も無く、ただ「はらわたした」イエス様が共に歩んでくださっている。
 そのイエス様の「隣人愛」に生かされ、私たちも日々、整えられていければと思います。

 

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