しつこい祈り

    執事 アントニオ出口 崇

 

  「相手を裁いて。 わたしを守ってください」 (ルカ18:3

 

 神学者であり牧師の関田寛雄先生の著書の中に、「この世で一番の殉教者は『主の祈り』である」というような一文が書かれていました。殉教者とは、教えに殉じた人、キリストの教えを守るためにその時代の為政者や敵対者によって殺された人達のことを言います。
キリスト教の歴史の中でもたくさんの殉教者がいますし、ローマカトリックではそれらの殉教者を「聖人」と呼んでいます。
 毎日のように世界中でたくさんの人々に唱えられている主の祈りが一番の殉教者。祈ったそばから、その願いや誓いを忘れていき、殺されている、ということでした。
 確かに「私たちも人を赦します」と唱えながら赦せないでいることもありますし、本当に切実に祈っているか?と言えば、意味も考えずにただ唱えているということの方が多いです。
 私はキリスト教の幼稚園出身ですので、最初は意味も分からず覚えました。
「主の祈り」の文言の意味について真剣に考えたのは、神学校に入学してからでした。
 「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」と言う箇所でも、実感は余りありません。子どものころに好き嫌いをすると母親が怒りながら「世の中には食べ物がなくて困っている人たちがたくさんいる」と言われたことを思い出します。
 ニュースや、年配の方々の戦中戦後の話を聞いて知っていますが、私自身が、食べるものがなく、飢え乾いたという経験をしたことがありません。幸いなことですが、「日ごとの糧を今日もお与えください」という主の祈りの」節は、実感がこもっていない、日ごとの糧が無いなんてことは考えられない。と傲慢になっているのかもしれません。
 しかし、日本国内にも食べるものに困っている方が今もおられますし、イエス様が活動された当時のユダヤでも、日ごとの糧というものが切実な問題であったのだと想像できます。
 ルカ福音書の、「やもめと裁判官のたとえ」と呼ばれている箇所では、祈る姿勢をイエス様が教えてくださっています。
  「やもめ・寡婦」は当時のユダヤ社会の中で厳しい生活を送っており、周囲の人々の援助が無ければ生きていくことが出来ませんでした。
 そんな女性が「自分を守るために相手を裁いてほしい」と裁判官に願いますが、その願いはおそらく切実な、血気迫る思いであったことでしょうし、そう簡単にあきらめることもなかったのだと思います。イエス様は私たちにその女性の訴えのように絶えず祈りな
さい。と命じられます。 自分自身が苦しい時、人間関係や仕事でしんどい思いをしている時は、「神頼み」ではないですが、真剣に、熱心に、具体的に祈ります。しかしそれが聞き入れられ、私の願い通りに事が運ぶことは、なかなかありません。
 そして、しんどい時期が去って、自分自身が落ち着くと、苦しい時のような、切実に熱心に祈るとこともしなくなります。
 
 ルカ福音書の最初の読者たちはキリスト教の迫害の中にあり、落ち着いていられる状態はほとんどありませんでした。キリスト教を信じるが故に、命の危険に常にさらされている中、どれだけ祈っても自分の生活が安全にならい。とあきらめ、教会の共同体から去っていく、信仰を捨てていく人達もたくさんいました。努力しても祈っても報われない「あきらめ」が蔓延しだしていた時代でした。
 信じることも祈ることもあきらめかけた人たちに対してのたとえ話が語られます。神様は常に正しく、慈しみ深く、全ての人たちの思いを分かち合ってくださる方、という教会の正当な教えをあえて覆し、神様とは、この人を人とも思わない、自分自身のことしか考えない不正な裁判官のような方である。だから、聞いてもらっているという前提で祈るのではなく、しつこいくらいに祈らないと聞いてもらえない。
 ルカの教会の人たちもそうでしたしイエス様の話を聞いていた弟子たちや群集たちも驚いたことだと思います。そして自分たちの祈り、願いを、自分と神様との正しい関係を再認識したのではないでしょうか。
 神様がこの裁判官のような方なら、自己主張をすることが苦手な私は、神様に対して何も言えなくなってしまい
 この女性は「相手を裁いて、わたしを守ってください」と願っています。この言葉は、直訳すると「相手に対してわたしを裁いてください」という、日本語では逆なニュアンスになります
「裁き」には「悪を断罪する」という面だけでなく「善悪をはっきりさせ、弱い人を守る」という意味があります。そういう意味で「わたしを裁いてください」というのです。
「私を救ってください」と願うことがあっても「私を裁いてください」とはなかなか言えません。しかし、イエス様は私たちに、この女性のように「神様の御心のままに私を裁いてください」と自分の全存在をかけて切実に祈ることを求めておられるのではないでしようか。私達一人ひとりが神様の前で裁かれる時、罪を赦し、立ち上がらせ、共に歩んでくださるイエス様が居られることを再確認し、感謝して生きていければと思います。

 

 

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