迎え入れる

執事 アントニオ出口 崇

 

「その名はインマヌエルと呼ばれる」(マタイ1:23)
    降臨節の最後の主日に、今年はイエスの母マリアの夫であるヨセフに知らされた出来事が語られています。
    ヨセフさんのことを、「イエスの母マリアの夫」と少しややこしい表現をしましたが、「イエスの父」とは聖書にはどこにも書かれておりません。正確に言えば、俗世間的に言えばヨセフさんの身に覚えのないこと、もちろんマリアさんにも身に覚えのないことだったのですが、自分の婚約した女性が、自分の身に覚えのない子どもを身ごもっている。ヨセフとマリアの当人同士でも信頼関係が揺さぶられるような出来事ですが、当時の社会ではなおのこと、大問題でした。
    マリアさんが不貞を働いたと言うことになれば、姦淫の罪でマリアさんは人々に殺されてしまいます。ですので、ヨセフさんはなんとかマリアさんの命を守るために、ひそかに縁を切ろうと決意をしたところに、主の天使が現れ、マリアさんのおなかの子どもは聖霊によって宿ったと伝えます。
    幼稚園のお話しなどで、ヨセフさんやマリアさんが天使のお告げを聞いて「何故」驚いたのか、ということを伝えるとき、「身に覚えのない妊娠」という説明は躊躇してしまいます。もっと上手な話が出来ればいいのですが、「ヨセフさんとマリアさんは結婚式をする前に赤ちゃんがおなかの中にいることを知って、とっても驚いた」という説明を以前したことがあります。
    ほとんどの子どもは「えー!それは大変だ」と驚き、納得してくれたのですが、一人の女の子が「そんなん、あるって」と、ボソッと私に話してくれました。その大人な反応に驚きつつも、何だか嬉しくなり「うん、そんなこともあるよな、うん」と答えたのですが、続きの話を忘れてしまった思い出があります。
    ヨセフさんとマリアさんにとっての大変さ、不安というのは、計り知れないものでした。多少なりとも自分たちの行動によって引き起こされた結果であれば、まだ納得できるかも知れませんが、「聖霊によって」つまり神様からの一方的な働きによってなされた出来事なだけに、とても混乱していたのだと思います。
    聖書の中でヨセフという人は、イエス様の誕生とその後数年間、幼少期に共にいたということしか分かりません。イエス様が十字架に架けられた時、母マリアはそばにいましたが、ヨセフさんについての記述はありません。
    聖書の中でヨセフさんに与えられた役割は、イエス様が聖霊によって婚約者のマリアの胎内に宿った、その一方的な神様からの関わりを知らされ、受け入れるというところだけです。
    聖書には、目が覚めたヨセフはマリアを受け入れたと、淡々と書かれています。天使の言葉を聞いて納得して、喜んで受け入れたとも読めますが、何を受け入れたのか、何を納得したのか。具体的なヨセフの思いは想像することしかできません。
    神の子を受け入れ、育てることを命じられ、喜んだと言うよりは、聖霊による出来事だから、何をどうあがいても仕方のないこと、従うしかない、という、言葉は悪いですが、「あきらめ」のような思いだったのではないでしょうか。
    私たちも、ヨセフのように「なぜ私が、なぜ自分に」と答えの出ない疑問を発する時があり、それぞれにとって、重たい荷物を背負っています。
    しかし、神様はヨセフやマリアに、その重たい荷物を「丸投げ」したわけではありませんでした。
    「その名はインマヌエルと呼ばれる、神は我々と共にいるという意味である。」
    全ての人々と神様が共に居られる、私たち一人ひとりの人生全てに関わってくださっている。その神様からの愛の証が、救い主イエスキリストでした。
    ヨセフにとっても、マリアにとってもそれぞれに重たいものを抱えながら、イエス様の親として、苦労や悲しみの耐えない人生を送っていきます。しかしその人生には常に関わりを持ってくださる神様が共に居られる。重荷を共に荷い、思いを分かち合ってくださる。ヨセフはその宣言を直接聞きました。
    全てが喜びとはどうしても思えない、しかし、神様の助けがあるから、楽にはならないけれども何とかやっていこう。目を覚ましたヨセフの思い「あきらめ」のような思いとはそのようなものだったのではないでしょうか。
    クリスマスを迎える最後の日曜日、この紫の季節は、準備の季節と言われています。ヨセフを始め、私達人間の無力さと、その無力な私達一人ひとりの中に働いておられる神様の力、私たちもまた「聖霊」神様の力によって支えられ、生かされている存在であることを覚え、その証として私たちの元に来られたイエス様の誕生を共に待ち望みたいと思います。

 

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