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最近「食育」という言葉が、様々なところで語られています。その多くは何を食べるかと言うことが問題になっています。しかし、同時に私は、いかに食べるかという点を抜きにして食育は語れないと思います。 インドのカルカッタで、死ぬゆく人を愛をもって見送っていたマザーテレサのエピソードの中で、死にゆこうとする子どもに何とか一口のスープを飲ませたいとしてシスターが取った行動を想い起こします。子どもは硬く口を閉ざしてスープを受け入れません。シスターはそのとき、その子どもをしばらくの間しっかりと抱きしめます。そして子どもの身体が?心が?少しほぐれたあとにスープを飲ませると子どもはそれを飲むのです。何を食べるかが重要であると同時に、どう食べるのかの大切さを知ったように思います。 食べるということは、キリスト教の中でも、とても大切な要素だったように思います。イエス様は、様々な場所で、様々な人々とともに食卓を囲まれたようです。あの周りから嫌われ者であったザアカイとともに食事をしました。この食事の席で彼は回心したようです。結婚式の場面では、足らなくなったぶどう酒を祝福して新郎新婦にプレゼントしました。 5千人の人に対して、魚とパンをおなかいっぱい食べさせてあげることができました。また、最後の晩餐では、パンとぶどう酒を分かち合うことの意味を教えられたと思います。 食べることは「命を養う」「生きる糧を得る」というとても重要なことですが、それと同時にその食卓において、一人ひとりがかけがえのない人間として大切にされるという面をもっています。イエス様の場合は、家族以外の様々な人々、特に社会の中で罪びととさげすまれたような人々と食卓を囲む中で、一人ひとりを大切にする「交わり」としての食事の意味を与えてくださったと思います。聖餐式の大切な意味でもあります。 これこそ、現代の家庭においておろそかにされがちなことなのではないでしょうか。忙しいのはわかります。でも一週間に一度は、一ヶ月に一度でもいい、食事をすることを通して家族が交わり、一人ひとりの思いをしっかり聞き取る、子どもは自分の思いを安心して語る。親は親で自分の価値観を子どもに語るそんな場面ができたらすばらしいと思います。また、食事の準備段階、買い物に行ったり、準備をしたり、食卓を整えたり、そして後片付けの段階にいたるそれぞれの部分を家族が分担して担当することも、食事を楽しむために大切な点ではないかと考えます。高価な、珍味な物、安売りの食材なんでもよし、食卓の人間関係が、そのまま現実の人間関係として顕われていることを憶えたい。 |
