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今月号の3面に、初めて、「サマリア会」の働きが紹介されています。教会の活動の中には、様々な形のボランテイアの働きがあります。インターネットを検索しても、出てくる出てくる、様々な働きがボランテイア(以下ボラと省略)の項目にあります。たとえば、地球ボラ(地球環境を守る)、治験ボラ(医学上の実験に参加する)、お買い物ボラ(買い物して役立つの?)、田舎ボラ(都会の人が田舎へ出かけて)など、ありとあらゆることにこの言葉が引っ付くのだなあと驚かされました。 語源をたどるとラテン語のヴォーローでしょうが、英語のwill(意思)もここから出ているようで「自ら進んで何かをする」という本来の意味に行き着きます。ただ、昨今のボランテイアの中には、押し付けられたあボランテイア、嫌なことでも我慢して行う滅私奉公的な意味にも使われます。教会で行うボラアンテイア(奉仕)も、そうした強制されたもの(奉私)でないことを願っています。 ボランテイアをすると、3面の宮本さんの文章にも出てくるのですが「こんなとこで、何をしているのか?」と問われることになります。これがボランテイアのとても大切な一面をあらわしているように思います。自分の立場を問われているということです。 先に述べましたように、ボランテイアに参加することは、自分の意思をそこに表明することになるのですから、そのことが引き起こす波紋をこの身に引き受けることでもあるのです。ボランテイアに参加することは、いいことだから、誰からも賞賛されるもの、喜ばれるもの、だから参加するという考え方だとしたら、ちょっと違うのではと言いたいのです。 ボラアンテイアに参加することは、何らかの社会問題なりに自分の意思を表明することになり、そうすれば反論が起きたり、問い掛けられたりする。そういう危険は覚悟の上で、一歩を踏み出すこと、そこに得られる充実感なり喜びは、安全な場所にとどまり安穏とした生活を送ることとは全く違ったものとなるのではないでしょうか。 自分を傷つくことを恐れて、できるだけ自分の意見や立場を明確にしないようにして生きることが、賢い生き方(?)だとされるような現代だからこそ、自分の思いを明らかにして、その道に歩むことがとても大切なことのように思います。それが、社会の中で弱くされ、疎外されている人々とともに生きようとする道であればなおさらのことです。 私たちを救うために、十字架の道を自ら進んで引き受けられ、最後まで貫き通されたイエス様の歩みの中に、今なお、ボランテイアの原点があるように思われるのです。 |
